風の笛

まだ波打っている道

 中島みゆきの歌に「風の笛」という歌がある。詩も切ないが、バックに流れている伴奏の中にホイッスルが吹かれる。涙があふれる。ホイッスルの音はこんなにも切なく悲しいものだったのかと思った。空に向かって吹かれる笛の音が私のことばにならない想いと重なって「もういいから、言葉いらないから」と思う。
私もホイッスルを持っている。スカウト活動に使うのだけれど、それとは別に自分のいのちを守るための笛。私の持っているホッスルはライフガードのもので笛の胴体に非常カードが入るようになている。私はそこに亡くなった息子の形見を入れている。どこに行くにもどんなときも一緒にいる。そしてたまらなくなったら、そっと笛に唇を当てる。車の中でそっと小さく吹いてみる。聞こえますか。聞こえたらここに来て隣に座ってください。
 幾度も繰り返される心の揺れを私が書き続けるのは、人の心の回復には波があって繰り返し押し寄せるものだということを知って貰いたいから。世の中のひとは年忌ごとに、悲しみを表現しないようにしてゆく。「まだ悲しんでいるの。亡くなったひとが成仏できないよ」
心は蓋をしなければならなくなる。たまりかねて悲しい人はそれが許されている場所を探す。例えばひっそりと街角にある生神様。例えば恐山のイタコ。例えばどこそこの霊場の口寄せ。昔から悲しむひとは亡くならないから、人々はこうして悲しみの道を用意してくれている。
時薬というけれど、そんなことはないのだ。大切な人をなくして悲しみがなくなるわけがない。苦しんで悲しんで、それでも一人の自分の人生も生きてゆくためには、心置きなく悲しむ時間と、そっと悲しみを置いて目の前のことに集中する時間も必要。そうしなければ社会生活ができないではないか。
だからこの場所を通じて、悲しみを悲しむことがなければ生きることはできないと伝えたい。