餃子

 夕食は餃子。皮を手作りにするのを省略して、市販のものを買ってきた。水餃子に耐えられる皮のコシと厚みがなくて、焼き餃子にする。皮は手作りのものが美味しいなと思う。どんなに薄くのしてもこんなに頼りない風合いにはならないもの。まあそれでもヘルシーな餃子はそれぞれのお腹に収まった。めでたしめでたしだ。
 冬野菜をたくさん食べることができるのは嬉しい。時々遠い昔の、自分が幼かった頃の食卓を思い浮かべる。日曜日の夕食は水餃子だった。毎週父が皮をつくり母が種を作り子供がそれを包んだ。小学生の頃から餃子を包むのは上手だった。母は相手が子供であっても手加減をしなかったから鍛えられたと思う。最低120個の餃子を包んだ。誰も何もしないひとがいない食卓。みんながお手伝いではなく自分の持ち場として責任を果たして成り立った食事。妹は幼稚園児の頃から自分のできるスピードで餃子を包んだ。家庭の中で色んな場面で同じように作業分担がごくアタリマエのこととして行われていた。不満に思うこともなかった。お手伝いという言葉はなかった。自分のやるべきことをしたのだし、その持ち場はその人の責任だったから。
 今、我が家ではそれがなかなかできない。学生である娘があまりにも課題に追われて、いつも自分だけの作業に追われている。それをやめてこっちをやれというわけにいかない。もし母が生きていて、この状態を見たらなんというかな。きっと呆れるだろうな。娘は幼い頃からのキャンプ生活や引越しで最低限の生きる技術は身につけているが、優雅に暮らしを楽しむ能力は育っているのだろうか。暮らしを楽しむのもまた能力であると私は思うのだが。