セルフ・エンカウンターの必要性

 このところ、研修をしていて、自己覚知の必要性を感じる。自己覚知とは文字通り自分が何者かであることを知る作業である。
 自分のことは自分が一番知っているはずなのに、実は自分が「私」について知っていることはごくわずかなことが多い。感じていること、考えていること、行動していることのすべてを知っているなんて無理なことだし、過去から現在につながる記憶でさえ、無意識に収まりのよい形に変形していることが多い。私にとっての記憶と、実際にあった事象との間にずれがあることはごく普通のことである。しかし、何かがあってその食い違いを正す必要が起こらない限り、私たちは、自分の記憶に疑いを持つことは無い。
 まして、今やっていることのすべてが、自分の認知の中で行われているとは限らない。私たちは意識したり、注意喚起したり、記録したりしながら何とか途切れた記憶の時系列をつなぎ合わせているに過ぎない。そのいい例が数日前の日記を克明に書くことができるだろうか?何か事件や特別なことがあった日は別だが空白の一日はいつもと同じと書くしかない。その「いつも」は何を指し示しているのだろうか。
 修道生活のように日課が決まっていて、その中で規則的に生きている人は別だろうが、私たち一般の暮らしを送っているものにとっては「いつも」という枠は 同じという言葉でくくることはできないのだ。意識のうちには変化の無い、しかし現実には刻々と変化する中で私たちは無意識の時間を生きている。その中を貫いている自己とはいかなる存在であり、いかなるものであるのか。そのことを覚知することが「対・ひと」の関係を作るとき重要になってくる。それがうまくできない、かみ合わない、距離感を保てないのは、自分が思っている自分の姿・気持ちと、現実の自分のあり方の間に一致が無いからでは無いだろうか。己を知ることの大切さは、社会性をもって生きる人間の定めのように思うのだが。社会の中で人と関わる中で自然に身についてきたものだったはずなのに、今の社会の中でそこまでのかかわりをもてないまま大人になってしまった人たちが多い。その人たちにとって、関係性を築くことは改めて訓練し、研修し、もしくは意識して人と交わり、意識して学んでいくしか方法が無いのかもしれない。それにしても、人とかかわりたいと願う人の中にもこの傾向が強いとすれば、そんなことに必要を感じない人たちは・・・このところの人間関係の結果生じる心の病気の多さを思うとき、暗澹たる気持ちになる。心の病気は、社会の中での人間関係の自然崩壊であるように感じる。
 北極の氷河が崩れる映像を見るたびに、私は人間社会の崩壊の姿を見ているような気持ちになる。今ならまだ間に合う。もう一度、今あるかかわりの中で自己を見つめる勇気と忍耐を持って欲しい。