日常が戻ってこない

自分の暮らしの中から、何か良いものが残せたら良いなと思った。「人生フルーツ」を観に行ったのは、母が少し落ち着いてほっと安心したころのこと。前に一冊このご夫婦の本を買って読んでいたから、心惹かれて。私には望むべくもない穏やかで暖かな日々の暮らしがゆったりと流れてゆく。映画ではご主人が亡くなって奥さんが一人残されて、それでも緩やかに時間が流れて行って、なんと強くたおやかな人だろうかとっまた惚れた。私も、こんな豊かな時間を生きていたいのだと思った。誠実に豊かに生きられたら、どんなに良いだろうか。
 
華やかな人生を思い描いたこともあった。いつのころからか、より静かに、よりひっそりと、しなやかな生き方にあこがれるようになった。騒がしいものや、目まぐるしいものに疲れを感じるのは、私の持って生まれた気質のためだろうか。自分の中に激しいものがあると思って過ごした若い時代の、あのうずくような嵐は何だったのだろうか。人生は生きるに値するものだとは思えなかった。死はいつも身近にあった。

あの日からもうずいぶん長い時間が過ぎ、家族を亡くし、死の痛みをいやというほどかみしめた。死のとげは一度刺さったら、心の奥深く根を下ろし消え去ることはない。そして死によって人生は深みを増し、人生の旅は豊かになる。苦しみだけ、喜びだけという単調なものではないのだと、幾度もの死の旅立ちを見送って私は知るようになった。
これが人生なのだ。ニーチェが「ではもう一度」と言い放ったように、言葉に出す勇気はない。しかし、もしまたこの旅をすることになったとしても、私は拒まないと思う。よくも悪くも私そのものの旅だったと思うから。