復活徹夜祭

mugisan2016-03-26

 いつもなら卵の絵付けをしているはずの日なのに、今年はなんと卵をゆでてさえいない。これは前代未聞のこと。とりあえず30個はゆでなければ。例年は50個ゆでる。絵を描いて親しくしている人たちにお配りする習わしだったから、やるべきことをやっていないような気分になる。落ち着かない。



今日は徹夜ミサがある。この日十字架で亡くなり、墓に葬られたキリストが再びよみがえることを私たちは自分たちのたどるべき道として確認する。子供たちが幼い頃、近所に何種類かのキリスト教の宗派の家族がたまたま住んでいて、子供たちの間で「およみがえりごっこ」が流行った。草むらにばたんと倒れて「およみがえり・・・」と大声で宣言して起き上がるという遊びで、私は階上のベランダで洗濯物を干しながら、おかしくて大笑いした。ナマモノの生きる死ぬではないんだけれど、表現が生々しいからおかしかった。微妙にそれぞれの宗派ごとの表現も異なるらしく、興味深くもあった。復活祭の意味を知らないノンクリスチャンの子供たちはゾンビごっことして楽しんでいた。



復活祭のろうそくに火をともすとき、命の始まりと終わりを感じる。今年も又新しく生きていく力をこの光の中に見る。命は自分のものであって、自分だけのものではない。たくさんの命とつながっている。つながることで人は生きることの意味を知ってゆく。生かされるだけではなく自分もまた人を生かしていることを知らなければならない。復活祭は慰めに満ち、生きることを受け入れる覚悟をする日。何があっても、どんなに不安があっても、今ここに生きている自分の命の力を、命の意味を信じる。たとへ明日死ぬべき命であっても、今この時を潔く引き受けて生きようと思う。その覚悟をする。


命はその始まりと、終わりを自分自身では、知ることが出来ないのだもの。朝目が覚めて、今日というこの日を与えられていることを引き受ける。夜眠るとき、朝が来る保証はないことを知る。だからこそ投げやりになったり、先延ばしにしたりはできない。この日一日が、続いてゆくことが人生を旅するという事。だから夢を見ることも、計画することも可能になる。自分御旅の終わりは自分ではわからないけれど今」ここでできる最善を尽くしてゆきたい。これでいいかはここにはない。



野の花の潔さは、たとへ明日枯れるものであっても、今懸命に咲くところにある。種は蒔けば土から芽を出す。そしてたとへ雨が降らなくても地中深く根を張って、空に向かって伸びようとする。人も又おかれた土地で、与えられた雨や光の中で必死に生きようとする。あるがままに生きるとはそのような姿ではないのだろうか。


まず卵買ってこよう♪