洗礼記念日

 18歳の時私は洗礼を受けた。この日ここから新しい生き方をしようと心から思った。自分の人生を、自分だけではなく、同じ時代に生きている誰かのために何かができる生き方をしようと思った。できるはずもないとか、そのために何をしなければならないかとか、そんなことを考えもしなかった。ただもしそれが私への呼びかけならば答えていくべき道も姿も示されると思った。素直な気持ちだった。
 きっとこの道を歩いてこれたのはあの洗礼の日の思いが素直に心の中に生き続けているからだと思う。結果はどうなのかは私が死んでしまってもう誰にもわからなくてもよい。いなくなって消えてしまって、その相手がふと自分の人生を振り返った時、一瞬私との出会いの中で、何か暖かな思いがあったならそれで最高ではないか。私自身がそのことを知る必要などないし、評価なんてまるで関係のないことだ。そう思うとお気楽な人生を生きてきたと思う。洗礼ということは単なる形にしかすぎないのにと思ったことがあったが、やはり私個人にとっては神との直接的関係の出発点であり、終結点でもあったなと思う。だから、私はこの日が人生の最初の日だと思うのかもしれないな。

p3*終戦記念日
 ジョナサンが生まれたのは八月十日。私は小さな産婦人科に入院していた。もともとは日石に勤務しておられた医師と婦長さんが結婚して開院した小さな地域の産婦人科だった。家に帰っても助け手がいなくて幼い四人の子がいることを知っているので体が動けるようになるまでゆっくり休んでいきなさいと、少し長めの入院だった。退院したらすぐ日常生活に戻るんでしょうと言われ、それも覚悟のことだったから、悲壮感も何もなかった。お昼の食事が、お赤飯に尾頭付きのなんと祝い禅が出た。配膳してくれた奥さんに「なぜなの?」と尋ねたら「今日は平和が日本に戻ってきたお祝いの日だから」とのことだった。なんだか胸がいっぱいになった。あなたも家に戻って頑張りなさいねと励まされているように感じた。マタニティブルーになることもなく、なんとか過酷な日常を生き抜いてきたのは、こんな周りの人たちの暖かさがあったからだと思った。
 終戦記念日という言葉の中に平和の日という響きを感じ取った最初の体験だった。