あたかも何もなかったかのように

一枚一枚の葉がきらめく

 さらりと日常が戻ってくる。仕事があるっていいことだなと思う。誰も何も言わなくて、この空白の一週間はあたかもお互いの間にはなかったかのように、一週間前の時間の続きが始まる。子供のころ抱えていた、あのあふれるようなお休みの楽しさや、思い出は大人になってしまった今は、ひっそりと胸に畳み込まれている。大人になるとこんな風に日々の記憶はしまい込まれてゆくものなのだな。
 こうやって語ることのない記憶は、いつか心の奥深くに消えて行って、もはや語られることもなく、伝え聞く人もなく、個人の記憶として消えてゆくのだろう。イメージとして思い浮かべると、こうやって消えてゆくのが人間であるから、今の時代には個人のお墓が必要なく、自然に返されてゆくという埋葬形式が存在を許されるようになったのだなあ。

 個々人墓を持たない時代がかつて存在した。モーツアルトの遺体は大きな穴にまとめて放り込まれて、個人としてのお墓はないという。体は、命の入れ物だから、魂が旅立った後は不要のものというギリシャの考えもある。思い出すよすがとして墓を必要とするのは、亡くなった人ではなく。残された者たちである。

 私たちは過去を流し去って生きる生き方を「よし」として選び取ってきた。誰に何を残してゆこうが残された者たちも又有限の存在である。せめて次の代、次の次の代、三代残るとしてもたかだか100年で私の存在そのものの記憶は消えてゆく。


命を惜しまず、名を惜しまず生きたとて、たかだかこれぐらいの記憶の中にとどまっているだけの人生。そう思えば、なんと自由な気持ちになれることだろうか。守るべきものも、失うものもそんなに多くはない。ただ自分の人生を、自分のものとして大事に生きることを思う。解放された思いがある。次の世代への責任は個人ができるだけのことをする。あとは次の世代が引き継いでゆく。そう思う。