こんな日は

広瀬川流れる岸辺〜

暖かくしてリンゴを丸かじりしながら、お気に入りの一冊を読みふけfるに限るのです。昔から本の虫だったのでその時はまっていた本と季節の果物が重なるのです。リンゴはなんといってもシャーロックホームズでした。文庫本一冊にリンゴ一個。夢中になって読んで気が付くともう暗くなっているなんてことがよくあって、それが許される時間の長さと、気持ちのゆとりがあったのだなあとあのころのゆったりとした暮らしが懐かしくなります。いまは短編一編を読むともう時間が気になりだします。小刻みにつないでやっと一冊を読み終えると、ほっとします。読みかけたまま年単位で枕元にある本が増えてゆきます。読みさしであっても、そのときこの本でなければならない気持ちがあるからです。そこはストーリーが最優先していたころの気持ちとのずれでしょうね。年齢を重ねると読み方も、受け入れ方も、選ぶ本も変化してくる。面白なあと思います。


 あのころの母の年齢を思い浮かべてみると、私よりももっと元気で好奇心に満ちていたように思います。自分がやりたいことを、思い浮かべることのできる人は、端迷惑である一方で、周りをも変化させる力を持っていたように思います。私はなんだかその一歩が先に進まないように感じています。この頃ふと、この生き方をいつまで続けてゆくのだろうかと思うことがあります。どこかで一休みしたいけれど、そのタイミングが見つからない。民話の渡し守のような気分です。櫓を手渡す相手がいなければ漕ぎやめることも、死ぬことも許されず何百年も渡し船をこぎ続けている老人の話です。こんな気持ちの時はかなり鬱っぽくなっているのだろうなと思います。鬱っぽくなって活動をセーブして体も心も一休みすることがきっと自然の理に適っているのでしょう。


 母のように自分の気持ちに正直に突っ走る人のほうが、自分を幸せにする能力があったと思います。私は、倒れるまで走り続けて倒れてやっと一息つくタイプの様です。こんな人間はあまり長生きはできないし、そのほうが本人にとっては幸せなのだろうと思っています。周りも又、ゆとりのない人間のそばで生きることはあまり楽しい生き方ではないと思います。キリギリスが暮らしの中には必要なのです。ありばかりでは息苦しく豊かな楽しさがありませんから。