十数年前に転勤で別れた宣教師がまた戻ってきた

今日も浮かんでいる飛行船

 子供たちが幼かった頃帰国なさって、それから再度日本に宣教に来られたが、ずっと他県で司牧なさっていた恩師が、また戻ってこられた。音楽が好きで、子供たちが好きで、少年の目を持った人だった。宣教師として最後に何ができるのかすべてを整理しつくして何を最後の仕事とするのか。その現場に私たちがともに在ることが許されるとしたらこれ以上のことはない。
 ともにそれぞれの時間を生きてきたこの十数年たくさんの大切な人との別れがあった。失ったものがたくさんあった。そしてそれらの痛みとともに心は少し柔らかく、受け入れる幅は少し広がり、耐える力は大きくなった。老いた分忍耐と勇気を身に着けた。何よりも限界を知ることができるようになった。私は私なりに、師も又、師にふさわしく「生きてきたこの時間」に養われてきたと感じた。
 師は「今年の11月で80歳になりますよ。」とさらりと言った。だからどうだということを言いたいのではない、そこにある現実だけを語っている。体力の限界、残された時間の短さ。たくさんの別れ。
 エレベーターでのりあわせた日本人が「外国の人ですよね。日本語上手ですね」といきなり声をかけてきた。私は一瞬、不作法だなと思ったが、彼は「日本語以外忘れました」と答えた。その言葉の意味を心にとどめる。この国のこの町の土になるということを思う。師はさっきさりげなく言った。「もう、どこかへ行くという考えはありません」そうか・・・・。
 歩いてゆくと、すれ違いざまにまた見知らぬ人が「ハロー」と声をかける。彼は「こんばんわ」と応える。本人の意思にかかわりなく、ひかれてゆく線があるのだと、私は気が付く。和歌を読み、美しい日本の文章を書き、きちんと言葉を読む人に向けて投げかけられる片言の英語。これもまたこの人の日常なのだなあと思う。
 私は、最後の仕事のためにどのような手伝いができるのだろうか。話を聞いていると、それは私たち夫婦が生涯生きてきた道筋で感じてきたものと同じ響きのように思う。お互いに違う道を歩きながら、もしかしたら同じ風に吹かれているのかもしれない。