今日を新しい一日

娘たちがここでダンスの練習をしてる

 カウンセリングをしていて。思うことがある。もしこの人のこの記憶が収まるべき場所に収まったらどんなにか今を生きることが楽になるだろうか。記憶という物は時々生きることを不可能にしてしまうほど、今を支配する。解決することもできない。なかったことにもできない。ただ苦しくて後悔だけが戻ってくる。謝ってもなかったことにはならないことを、繰り返しかみしめて生きにくくしている。
 せめて自分の心の中だけでも、過去を分断して、今この時を生きることはできないのか。それができたらむしろ償いの手立てや、生きなおす道筋が見えてくることもあるではないのか。人を裏切った思いがいたたまれないほどの痛みをもたらしたにしても、まずいったん手放して、せめて今日一日を新しい一日として生きてみたらどうだろうか。それはわがままなことではない。生きていかなければ償うことができない。被害を受けた相手にとっても、生きて悔いることが必要なことなのだと思うことができるのか。その贖罪の気持ちの深さを思いたい。命をもって命を償いことをこの国の法律は極刑と呼ぶ。命を差し出す死刑と、生き続けて償うことを生きることとどちらが被害者にとって心慰められることだろうかと思う。これはその立場にたってなお思いめぐらさなければわからないことかもしれないが、記憶からの解放を私は恵みだと思う体験をしてきたから、生きるということをとても重いことだと感じている。