久しぶりに兄弟とあう

 この家族と同じ血が流れているのだと思うと不思議な気分になる。同じ血が流れていて、そして似ているのに、もしかしたら相手の人生を何も知らない。知らなくてもなにか分かり合える感覚がある。なんて不思議な存在なのだろうと思った。失ったものがまた蘇ってくる中に私は居るのだと思う。そしてそれはこんな形でしか補填されなかったからこそ愛おしくかけがえの無いものなんだろうなとも思う。わからないけれど、きっと私のやっていることによく似た流れがこの人達の中にも流れているのだろうなとも思う。私の子どもたちも、何時かお互いにこんな感情を感じ取ることがあるのだろうか。
 夫婦はどこまで行ってもお互いの心が重なりあうことはないように思う。一致することはもしかしたら心の距離を超えて大きなものの中にそれぞれが溶けてゆくことでしか実現しないのではないのだろうか。わかろうとすればするほど、わかってもらいたいと思う思いがあればあるほど、虚しさと疲れだけが残ってゆく。もしかしたら、私達は果てしのない目的地への旅を、幻を信じて歩き続けているのではないだろうか。夢幻の距離を縮めるのは人間ではなく夢幻そのものであるように思う。
 ならば最早そこにある自分自身の残り時間を夢幻なるものに向かって歩むことを通して夫婦であることは成就するのかもしれない。個人のレベルで個人としてその距離を満たすことは幻を信じるようなものではないのか。ユメマボロシが現実に成ることがあるのだとすれば、そこに至る生きた時間の中でここの人生が紡いだものがもたらす現実だけだろう。