今日は集会祭儀で司式を担当

聖ドミニコ修道女会青の木修道院

 緊張する。祭儀のはじめに短くメッセージをする。夜中にふと言葉がやってきた。今日の聖書の箇所はルカ15.1〜32 99匹の羊を置いて一匹の迷子の羊を探すというところ。その後に続くのは10枚の銀貨のうち一枚をなくして探す話。
最初は違う言葉を用意した。メッセージを書いていて、自分の言葉がどこかしっくりこなくて。自分の気持が、どこか借りてきた言葉のようで気になっていたらしい。メッセージは自分の心から溢れる言葉でなければならない。
 ふと自分を、なくなった一枚の銀貨のように感じた。床の溝の中に落ちて埃と土にまみれて光も失い誰の眼にも止まらない。孤独で絶望的な気分になった。その時ふとわかった。私が希望を持てなくなっても、その時「主」が「私があなたを探しだす。見つけて取り戻そう」と言ってくれている。私はこの身動きの取れない闇の中で、その時を待てばよいのだ。
 希望は、希望を生み出すことも、見出すこともできなくなった時、向こうからやってくる。自分が無力だと知った時こそ,主は動かれるのだと思う。付箋一枚のスペースでメッセージを凝縮して伝える。足しもせず、引きもせず。受けたものを手渡すのが私の召命だと思うから。
 祭儀が終ったあと、いろいろな人が自分が受け取った響きを私に手渡してくれた。なんというご褒美だったろうか。この銀貨の気持は、私が息子をなくして絶望していた時の気持ちだった。あれからもう8年の歳月が過ぎていく。後を追うこともせず、今こうして私は生きている。