忙しいと言ってはいけないと思っても

秋咲きのバラたち

子供のように時間割を組んで今日はどこに行って誰とあって何をする。それ以外にも何をどこ宛に送付するかをいつもピリピリと考えて暮らしている。
 仕事の量が多いというよりも関わっていることが多いのだと思う。もうそろそろいいのではないのか。のんびりと自分の時間を持て余すくらいに暮らしたいものだ。昨夜の心理実習でクライエント役になって思いもかけず自分の口からこんなことばがでて唖然とした。私はこんなことを思っていたのだ。そしてそのことを自分自身にさえも本気で確認しようとはしてこなかった。 
 気持ちの上でなんとなく転がして、何時かきちんとやらなければならない締めくくりを弄んでいるような気がする。見つめるのが怖いのかもしれない。沢山の人の最後を見てきて、その人が超えてゆく最後の境を見てきて、さて私はいつどのようにしてここを超えてゆくのだろうかと思う。
 死は恐怖だろうか。分からない。死ぬことが恐怖であるならば、あの愛しい人たちが越えていった境目はなんと軽やかに見えたことだろうか。透けて見えるほどの薄さと、風に揺れるようなはかなさを感じた。もしかしたら死は生とあやなすものではないのかとさえ思った。
 誰かの死が誰かにとって耐えがたく痛ましいのは、残されたものの命に与えた重さなのだろう。軽やかに過ぎ去ってゆく者達が見たものを、私も見ることができるのだろうか。
あの日から二年六ヶ月が過ぎて、ますます命の行方に思いが向かってゆく。それはまたどのようにエンデイングするのかということにほかならない。