命は誰のもの

白神

 命の授業を控えて、生きること、死ぬことについて考えている。其の中で脳死について語ることは避けて通ることができない。この死の形はなんとも座りが悪く違和感がある。調べれば調べるほどつらくなる。混乱する。それは遺族の立場で考えるからだろうと思う。
 たくさんの死を見てきて、それぞれの死の姿が遺族に与える痛みの違いを感じてきた。自殺の悲嘆、病死の悲嘆、事故死の悲嘆、犯罪被害者の遺族の悲嘆、自然死の悲嘆。それぞれにもたらす悲しみの色は異なる。其の中で脳死は全く別の悲嘆と苦しみがある。ドナーの意思表示がなくても、家族の意思表示があればドナーに成る今の臓器移植法の改正によって、更に遺族が抱える苦しみは深く痛みは激しい。心はこの新しい死の姿に耐えがたいものを感じ取る。
 そこを遺族が乗り越えてゆくことができなければ臓器移植はありえない。一人の死がなければ、一人の命の継続はない。これは酷い決断だと思う。このための死の定義を温かい体を前にした死の定義をいかに飲み込むのか。
 私が伝えたいのは、脳死の解説だけではなく、遺族となった時の家族の心のケアの方法なのだと思った。きちんとケアすることなくして脳死からの臓器移植はしてならないと私は思う。今それだけのケアがなされているのか。其の時だけではなく五年後、十年後まで抱えるであろうこの出来事に寄り添って支えていけるのか。それなくしてやってはならない神の領域の手立てではないのか。