遠い街に住んでいる

まだ若いツバメ

ままが怪我をしたと連絡があった。飛んでいきたいけれど、びっしりと日々の日程が組まれている中で、自分のスケジュールを組み替えることができない。騒いだって仕方ない。今は何が起きて、どう手が打てるのかがわからない。
 騒がない。騒ぎたいけど騒げない。人質を取られているから。こんなセリフを自分が吐くとは思わなかった。初めて利用者の家族の気持ちがしみじみとわかった。今までここまでの痛みはなかった。頭で理解することと、心で響くことの距離がまたひとつ縮まったと感じる。なんと切なく屈折した思いなのだろうか。今までこの相談を受けて、対応してきたが、頭でわかっていることに心を寄せて対応していただろうか。言葉の選び方も、気持ちの寄り添い方も隙間があったように感じる。
 「もしここを追い出されたら行き場がないんです。だから我慢してもらうしか無いんです」と何度聞いてきたことだろうか。その時、私の言葉に「ならば我慢してもらうんですか」とか「ならば致し方無いですね」とかの「しかたのないことだよね」と「言っても仕方のない繰り言」に「行動することを、本人の我慢に負わせて最初から諦めるのですか」の気持ちが含まれていなかっただろうか。「それでもそこを出るよりは、我慢してもらうほうが、本人のためによいと思うしか無いのですね」という深い同情が有っただろうか。
 しばし立ち止まって想いめぐらして胸が痛くなった。何れにしても診断書だけは施設に請求して取ってもらうことにした。我が身の痛さを知らねば、思い至らないことのなんと多いことだろうか。カウンセラーとしての私は。カウンセラーはあたかも受容共感しているかのような言葉の並びはできるのだが、本当にその同じ底に立たねば心からの共感受容はできないものだ。心からの響愛が無ければ人は自らを見つめる勇気は持てない。