一体何が

青葉山

この暑さ並の暑さではない。全く身構える気力もない。被災地からの訴えを聞く仕事をしている。まずそのほとんどの枕詞が「暑くて、何も考えられない」仮設住宅は暑いだろうなと思う。それだけではない。家が残ってなんの保証も支援も受けられなかった多くの沿岸部の人たちの困難は、見えてこないだけに悲惨だ。不公平感が吹き上がっている。おなじ地域で流されたものと残ったものの格差は大きい。流されたものは悲惨だが家が流されなかったものもまた悲惨なのだ。支援物資を受けることができなかったことの置き去りにされたという感覚、何もなくて食べるものを求めて炊き出しに並んだら「避難以外は駄目だ」と返された時の屈辱感と差別感。それは今持って心に深く残っている。一言語り始めると噴き上げるように言葉が湧いてくる。今まではしたないとか、惨めだとか、もっとひどい人がいるんだからと自ら押し込めて沈黙してきた人たちの痛みがもうこれ以上こらえきれなくなった。
 最初は皆同じだった。それが二年四ヶ月で格差が生まれてきた。多くの人は皆苦しいんだと歯を食いしばって自助努力をしてやってきた。しかし、NPOやボランテイアやマスコミにうまくつながった人と、全く自力できた人の間の格差は大きい。マンパワーもそうだし、寄付金の流れ方も不透明だという。自分だけが助かって復興したって街全体が死にかけていたらどうにもならないではないかという。その言葉の中に二年間に打ち込まれた無念さの深さを思う。
 この震災は目に見えるものだけではなく、目に見えない地域コミュニティの崩壊を招いた。今まで街がひとつの家族のようにつながっていたのにバラバラになった。ある人は「まず高台移転にする。そして箱物は病院、学校くらいにして、復興事業にかける。そうして皆が元のように働けば税金を収めることができて、街に金が入れば道路や箱物にだってお金をかけられるようになる。どんなに箱物を作っても人がいなくなっては街は死んでゆく」まず人でしょうと繰り返す言葉には、人の見えない行政に対して激しい怒りを通り越して無視され続けてきた深い悲しみがある。
 人を忘れて復興はありえない。