遺伝子

 遺伝子を調べると、その人がかかりやすいであろう病気や体の特徴的な変化が見えてくるという。アンジェリーナ・ジョリーの例を引くまでもなく、予めの予防的処置がとれるなら執りたいと思うのは人の情かもしれない。でももしそれがどうにも手の打ちようのないものだったらどうするんだろう。人はどこまで予めの未来の予測を求めるんだろう。私は自分の人生を振り返って、これを予め知っていたら、恐ろしくて生きてその時を迎え乗り切ることは、できなかったと思う。
 明日のことがわからなかったからこそ、何とか生きることができた。人生は先がわからないからこそ歩めるのではないのだろうか。
「ここまでならよい。予め防衛できるものならわかって手を打つのがよい。だが手のうちようもないものを予測したなら、それは知らないほうが良い。」とするなら、誰がそれを判断し、誰がそれを胸に秘めるのだろう。報告義務はどのように裁量されるのだろうか。
 その情報を悪意を持って利用することがないと言い切れるのか。例えば結婚の条件として、病気の可能性のない遺伝子を子孫に残そうと思う人が出てきてもおかしくはないだろう。調べて判明するものはなかったこと、知らなかった事にはならない。
 個人の遺伝子のデーターを知ることができ、さらにそれが堅い守秘義務に守られることが徹底して保証されていない状況、倫理規定のない状況で、果たして遺伝子レベルの情報を扱って良いのか。この状況で医学がどんどん人間の秘められた部分を剥ぎ取っていくことに、恐れを感じる。人間はそれ程に確たる倫理観を持っているわけではないのだ。
 被災地でも被災者の遺伝子研究が追跡調査されるという。微かに胸が騒ぐ。嫌な感じがする。ゲノムコホート研究に対して胡散臭いものを感じる。このことに関しては注目し続けていこうと思っている。果たして被災者は医学者に対して対等であり得るのか。医療費補助を打ち切られ病院に行けない被災者の現状を思うとき、私たちはそこに心理的圧力を感じ取る。