気がつけばもう

cool summer evening

 恐ろしいではないか。気がつけばもう七月の予定表を書き込んでいる。一ヶ月が一週間のような感覚で過ぎてゆく。こんなに生き急ぐことになるなんて思いもしなかった。きっとこんな生き方をしてたら、どこか荒んでいくような気がして、これではいかんと思った。心をこめて丁寧に、生きていることを実感して、なんていつの間にかどこかにすっ飛んで、自分が決めたこと以上に、外から入ってくるスケジュールがきつい。
 それだけ社会との関わりの中での仕事が増えたということかな。もうすぐそれはなくなるから、いまできることを果たしてゆきたいと思っているけれど、同じ24時間の中で時間を切り取っていくのだから、くたびれて当たり前。忙しくなって当たり前。わかっているのだから心を大事にしようと改めて思う。自分のための時間を意識して持たなければ、私は何のために生きていきたのだろうかと悲しく思う時が来る。他者は「自己満足」というかも知れないが、自己満足だけでボランティアをしながら生きられるほど甘くはない。
 そこに幾許かの使命感と、忍耐と、関わる活動の社会的意義を見出さなければ無休で無給の活動に生涯関わり続けるなんてできない。それを自己満足だと笑うなら笑えばいい。笑われてもやらないよりはやったほうがいいと思う。私は自己満足なんて味わうゆとりもなかった。まだ駄目だ、まだ足りないと自分を駆り立てながら、気がつけばやっとここまで来たという感じがする。ボランティア活動の専門スキルを自己努力で高めてゆくための投資は惜しまない。ボランティアだからこそ真摯に高品質のサービスを低級しなければならないと私は思ってきた。
 仕事なら見返りは当然労働賃金や社会的身分の保証として与えられる。ボランティア活動はそれらを超えたところに自分の活動意義を自分で見出さなければならない。金銭価値よりもっと大きい意味は何か。
 それは個々人で異なるだろう。自分が人として存在するための根拠であると私は思っている。人間らしく生きている自分を感じて生きる意義をそこに見いだせる存在の形が、私にとって自立であり自律であり自由な意志による社会奉仕の生き方だった。だからこそボランティアだから許されない厳しい関わりを自己に課してきた。
 このごろ「ボランティアなのに」「どうせボランティアだから」とゆるい規定の中で自分を逃してしまう人が多くなったと感じる。一度ゆるい規定の中に自分をおいてしまうと、困難にぶつかった時、責任を問わてた時、以上の言葉でやめてしまう。そこに留まる根拠が自分の中にないから逃げられる。ボランティアの意味は無報酬でだと思っている人が多いが、それは違う。「自ら進んで」ということがボランティアという言葉の本質である。「なんで、ただのボランティアなのに」と言う言葉を吐く人に出会うたびに思う。どういう人生を生きてきたのか、どういう死に方をしたいのかを何度でも自分に問いかけながら、今日も過ぎていく。