今日一日をどうやり過ごすのか

ハクモクレンかな

 私たちは自分のためのスケジュールを持っていて、それなりに予定を書き込みやりくりしたり、あたかも時間を自分で管理していると思って暮らしている。私ももちろん何冊かの手帳でいくつかの予定を組み合わせたり削ったりして何とかしのいでいる。
 朝が来ると疑いもなくその日の予定を書き込んでいる通りにこなしていく。そうやって、すでに今年度の予定は書き込まれているけれど、なんの不安もなく自分の健康がそれに耐えられて、当然それをクリアーできると思っているのはおかしいではないかとフッと思う。そこにはなんの不安もない。おかしいじゃないか。なんの保証もないのに。
 時々ぼんやりと思う。一体いつまでこうやって暮らしていくことができるのだろう。母が私の年齢の時は民生委員として走り回っていた。それがいつの間にか認知症を発症して周囲がおかしいと思いだしてからは坂を転げるように行動も思考も不思議ちゃんになっていった。
 本人が自分の異常に気がついたのはいつだったのだろうか。たまに来る子どもたちの誰彼が、ある日冷蔵庫の中に山のようなおむすびを発見した時、もう何年も食べきれないままに腐ったバターを見た時、離れて暮らしている私はその時間を母がどんな思いで一人生きてきたのかを思った。埋めようにも埋まらない空白の母との時間を、最早いまさら、私は埋める手段を持たない。
 今母は生きているが、あの母ではない。あの賢くてたくましくてユーモアたっぷりの母は最早どこにもいなくなってしまった。これを母が生きているというのだろうか。仕事で日々認知症の人と関わって支援する立場にいる時そんなことはチラリとも思わないのに、なぜか母のことを思うとき、無性に大きな空っぽの気持ちを感じてしまう。
 それはそうなる以前の、その人がその人として輝いていた時間を知っているか知らないかの違いかもしれない。私もいつの日にか母のように自分を脱ぎ捨てて何者かに変化してゆくのだろうか。その時かつて私が私としていきて人と関わりを持って機能していたことがあった証にこの手帳を持っていたほうがよいのだろうか。子どもたちが、今私の感じている空虚な悲しみを感じないですむように。
 生きるために。子供が母親の思い出を保って生きて行けるように。壊れる前の自分をそっと仕舞っておこうと想う。それは決して先のことではないと思うから。私自身が見失ってゆく自分を確認できなくなる前に自分を留めておきたい。