さよなら三角またきて四角

 子供の頃、自分がやりきれなくなるとよく大きな声で歌いながらどこまでも歩いた。はじめは怒りに任せてどんどん真っ直ぐにまっすぐに歩く。それは知らない道になっていっても辿っていけば知っているところに戻れるから。いい加減見知らぬ道を歩いて行くと、ここはどこなのかと不安が湧いてくる。時計を持っていないからどれくらい歩いてきたのかがわからない。でも不安が起こってくるということは怒りが他の感情よりも弱くなってきたということなのでそろそろと引き返す。帰り道は改めて歩いてきた風景を見つめることになる。来る時は道でしかなかったものが帰りは街の風景になる。この街を私は歩いてきたのだ。ここはどこなのだろう。そうやって私の中にラビリンスが作られていく。やがて日が経ちまた別のことで歩き出した時そこはもう見知らぬ道ではなく顔を知っている街になっている。怒りが収まる前に、ここまで来たらもうすぐお寺があるとか、神社があるとか、綺麗なお店があるとか興味がそそられるような記憶が戻ってくる。さまようことが無意味なものから意味のある小さな旅になっていく。
 いつの頃からかそれは免許を持ったからだと思うが、旅は車での移動になってしまった。気兼ねなく駐車できる場所の地図が頭に入っているから単にそこを目指して走ってゆくだけで、新たな地図は作られてゆかない。まして震災の後郊外はまだ整備されていないから行動範囲はとても狭くなった。これではもはや旅はできない。フッと笑ってしまう。便利になってかえって不自由になってしまったな私は。
 今日は午後から夜9時まで。がんばろう私。