震災後の言葉を

合歓ちゃん

 聴き取っている。様々な言葉があるけれどその中で胸に深くしみこんだ言葉は「話せない」と言う言葉。話しても判らないであろうことがあらかじめ判っているのに、何のために痛みを感じることを敢えて話すのか。話す事で気持ちが楽になることはもしかしたら幻想なのかも知れない。何かの必要があって、記録だったり、調書だったり、手続きだったなら話せることであっても、自分が楽になるためには話すことは出来ない。
 そうだろうなあと思う。私の中にも人に話せない痛みがある。あまりにも大きな悲しみは人間の言葉を超えてしまうのかもしれない。説明することも、理解してもらいたいと願うことも無力感が先にたつのはなぜだろう。判るはずがない。そう思う。あまりにも大きくてあまりにも深い悲しみは語りつくせないし、そのすべてを伝えなければ不完全なままでは、真実からは遠い。あまりにも大きな喪失を語る言葉は、それ以上でもそれ以下でもいけない。真実を語れないのなら、むしろ語らないほうが良い。言い尽くせなかったことは辛い・・・・
 傾聴ボランティアが無力だとは言わない。言いたいのは、話せる程度の悲しみに対してならば話して解放されうることはある。傾聴ボランティアがカバーできることと、むしろ語らないことがその人の生きる土台を守ることもあるのではないだろうか。開かせることは最後の皮一枚の生きる勇気を打ち砕くことにもなる。
 いまさらながら聴く事の怖さと有効性を感じ取っている。時と場合を選ぶ自由さを語る人に保障できない傾聴は心に深い傷を残すと思う。