空白の日記が続いた

積み上げられた雲

何時か必ずこの日々を埋めようと思っている。あの日から一日も人と関わらない日はなかった。昨日は被災者と関わることの多い人たちに、心に寄り添う為に何が必要で何が必要ではないのかの研修をした。
 びっしりと7時間。私はマイクを使わないから、今日は声がかれてしまった。一回やればよいというものではないので、これから何度もその時間経過にしたがって必要な研修をして行こうと思う。無料奉仕でやったけれど、本来この業務でペイされる報酬が75000円なので、その金額を寄付したことになる。少し嬉しい。只働きとは思わない。そこはきちんと仕事としてやったから。
 自分ができることが未だあるということは嬉しい。人生に無駄なことってないものだなと思った。ここしばらく、この先何箇所かでこの研修をする予定。その都度受講生の構成が異なるので相手に合わせての練りこみが必要だと思う。


 まだまだ私の休日無しの生活が続く。連続稼動更新中。頑張る。いくつかの場所に自分の働き場所があることは嬉しい。なにかの役に立つことが出来て嬉しい。ささやかなことであっても、生きていることの意味が感じられて嬉しい・・


 この街はいまだに被災地そのもの。まだまだ解決していないことが沢山ある。我が家を包み込んでいるネットも秋まではこのままだし、ベランダの補修のため植木鉢や置いてあるものを室内に一ヶ月に亘って取り込むようにと指示があった。取り込む場所などあるはずもなく,他の人たちは1階の花壇の共同エリアに鉢の中身をあけていった。仕方がないのかもしれないが、未だに壊れた建物の中に住み続けている者としては、心寂しい。

 今日区役所に、災害義援金の支給について聞きに行った。災害義援金と生活準備金が支給されるらしいが申告しなければならない。罹災証明書発行願いは受理されているのだけれどそこから先はまだまだかかりそう。いったいいつ支給になるか判らず、本当に支払判らず、みな不安に思っている。なくても何とか日々を暮らしていける人はよいが、それがなければ生活再建も出来ない人たちは焦っている。やがて諦めと絶望が来る。

 私たちは、ありがたいことに、かろうじてそれがなければ暮らしていけないわけではない。それでも、周りの人々と同じ流れの中で同じ体験と、同じ気持ちを味わっていると思った。焦り、諦め、悲しみの共有はこの土地に今生きるものとして遠くから眺めてすむ気持ちではない。痛みを共に痛む。先の長い旅を共に歩みたいと願う。その結果、我が家が支払いを受けなくても、それはまたそれで意味のある経験だと思う。
 毎日お金に絡む辛い話を聞く。お金のことをこんなにも真剣に聞いたことはなかった。人生の中でこんな風にお金は人と人を切り刻んでいくものかと思った。被災してやっと生きながらえた家族の絆を断ち切っていく力がお金にはある。お金に負けない生き方を、価値観を持ち得ないだろうか。