忙しくて

 ゆっくり幼子の降誕を黙想するゆとりもなく、ただ仕事で出会う人々の気持ちに寄り添っていく。そこで語られるのは人生に対する嘆き。日々の暮らしの不安。そしてやがて来る死への拒絶。裏返しの自殺願望。生と死の間を激しく揺れ動く。
 その言葉を聴きながら、ふと、ヨゼフとマリアも不安だっただろうなと思う。聖家族の不安は、今まさに起ころうとしている「未知の出産」という出来事への不安と、どこで出産できるのかわからない不安。それはやがて来る不安ではなく、たった今、もうすぐ確実にやってくることに対する不安。今の管理された出産しか知らない私たちには理解出来ないことだと思う。医師や助産婦という介助者どころか、出産の場所もないという出来事は、何を意味しているのだろうか。
 はっと気がついた。妊娠を隠し通し、たった1人で出産し、生まれた子を捨てた若い母親の事件に思い至った。このベツレヘムの物語は過酷な昔のお話ではなく、今、現実に私たちの隣でひっそりと起こっている実際の物語なのだ。
 聖家族のたどった道、イエズスの生涯は過酷な運命にもてあそばれた1人の人の物語ではなく、現実に起きている一人一人の人生の姿なのだ。思いそこに至ったとき、切なくてたまらなくなった。
 そしてこの物語に自分の人生がどの部分で出会っても、ヨゼフとマリアなら等身大で共感してくれるだろうと思った。
 なぜ神の子が人間として生まれたのか。なぜこんなに過酷な道を生誕から死まで歩まねばならなかったのか、判ったように感じた。私の人生もまたこの物語の中に書き込まれている。それは、遠いベツレヘムの出来事は、私自身の命の書に書き記されている物語に重なるものでもあると。今宵私は私の幼子を胸に抱く。旅はまた始まる。