施設訪門

 癌を抱えておられる方お二人。一時帰宅で自室に戻っておられる。
Aさんとは来年の球根の話をする。
「ひまわりは丈が高くて、花が終わった後の始末が大変なので、やめて欲しいと職員から言われた。」
「では何を植えようか。」
マリーゴールドの種を沢山とってあるからそれを蒔こうと思っている」
「そうなの?」
私は思う。この人の夏は後何度残っているのだろうか。この人が向日葵を諦める必要があるのだろうか・・ゴミの始末が大変だからといわれれば、始末をする体力のないこの人は諦めるしかないのだ。胸が痛む。
 Bさんは洋服のサイズが15号から7号に変わった。きるものがみな身体に合わない。ヘルパーに頼んでゴミ袋に洋服をいくつも詰めてゴミに出してもらった。今まではブランド物しか身につけなかった人なのに、「もう、着られれば何でもいいの。○ムラでいいのよ」その言葉の裏には善いものを買っても、引き継ぐべき人もいなくて、みな捨てられてしまう自身の行く末の覚悟が在る。この次同じ季節が巡ってきたとき、自分はもういないかもしれない。すでに必要なものはみな処分を前提としてしか考えられない。死ぬまでの時間を楽しむ、その時までの人生を味わう気持ちはない。もし家族が居て「最後まであなたらしく居て欲しい」といってくれるなら、この人はもう少し自分の日々をいとおしむことが出来るだろうに。
 BABAが亡くなった後、病院の荷物からコティのパフュームパウダーが出てきた。彼女らしいな。お洒落な人だったからと思った。自分の病状を告知されて砂時計の砂が落ちてゆくような気持ちで日々を生きているとして、私なら・・自分が自分らしい姿で最後の砂の一粒が落ちるまで生ききりたいと思うだろう。Aさんもう一度自分を輝かせてよ、と思いつつ部屋を出た。