生きている意味

芽が出るにはまだ早い

 クライエントから、いきなり聞かれて、今なぜそれが知りたいのかと問い返した。彼女は認知症が進んで、自分の心の中に閉じこもってしまった姑さんの介護を長い長い年月、続けて来た。今は、自分自身が大きな事故にあって以前のように動くことができなくなって、家族にとって何の役にも立っていないと感じている。だから、生きている意味が自分には感じられないのがつらい。家族は自分の身体の苦痛ではなく、周りの人の役に立つように考えたらいいだろうというけれど、自分の身体ひとつ自由にならず、必死で今日このときを生きているのに、どうしてそのようなことを言うのだろうか。と、彼女は嘆く。私のこの苦しさを分かってくれないという絶望感がある。
 生きている意味は、姑に対して息子である夫が感じるように、周りの人間がその人に対して生きている意味を与えるのであって、本人自身が持てるものではない。そう感じているのだそうな。
 確かに、生きている意味を、自分の使命を、自分自身で自覚することはとても難しいと思う。人はいつ、どこでその確信を持つのだろうか。必死の問いかけに、私は「その答えを二人で探しましょう」といった。この人に今、どんな巧みな言葉で答えても、それはこの人の答えにはならない。
 生きている意味は、何時かきっと自分自身で分かるものだと、私は思う。その人がその人の言葉で見つけなければならない命題。