昨日から
姫と大将が蛙ちゃん宅に泊りがけで出かけている。久しぶりに親分と二人きり。この二人でスタートしたのに何だこの感じは・・・二人に慣れている人にはわからないだろうけれど、なんと表現したらよいのだろうか。
多分私はまた学ぶことに飛び出すと思う。研修担当と、自分の資格試験と、とにかく何かに駆り立てられて時間を追いかけるような暮らしに戻るだろうな。このまま黙然といるか、イライラをかみ殺すのかなんてとても考えたくは無いから。私は私にできることをするよ、きっと。去年やり残したことをまた始めようと思っている。中途半端は嫌いだから。
動物の中で繁殖期が終わっても番いでいるのは人間だけだという。生涯命の限りを尽くして偽り無く日常の中で愛の更新をし続けられるカップルはどれくらいいるのだろうか。それは相手の私への愛情の確認ではなく、私自身の中の愛のあり方に対する確認の意味だけれど。自分の気持ちさえ満足に認識できなくて相手に求めることは許されないと思うから、それはしない。
私は出会ったあの時以上に愛情を育て人として成長しているのか。この関係を受け入れることに困難を感じてはいないのか。困難な状態があってもそれを自分から克服しようとしているのか。そう思って生きてきた。
今、ふっと立ち止まりたい。
自分の心を正直に見つめようと思う。
無理をして生きようとしてはいないのか。
これが望んだ形なのか。
二度とない人生をこのまま過ごしていいのか。
自分の問題として、自分に関する部分の
軌道修正は無いのか。
カトリックは離婚はできても、再婚は相手が生きている限り認められない。もちろん教会法にのっとったいくつかの手続きと特例があるが、そこまでして離婚するか。
カトリシャンの場合の結婚観は人として如何であるかということもさることながら、婚姻の秘蹟を受け、神の前に誓ったあの誓いに忠実であるか。それが自分自身の究明としていつも心にある。人はごまかせても、自分と神はごまかせはしない。誓いに忠実であるか。それは相手の問題ではなく、いつも、「私は」が問われている。私は暖かく接しているか。私は信頼しているか。私は手を差し伸べているか。私は忍耐しているか。私は誠実であるか。私は何にもまして愛しているのか・・何かを優先していないだろうか。何かが二人の間に割り込んではいないのか。それが如何に有益な物であっても二人の間の親密さを奪う物であればそれは第二の場所に移動しなければならない。
その地点で私は今立ち止まって自分を見つめている。過ちを犯すには人生はあまりにも短い。しかし過ちを犯さずにいられるほど人間は完全ではない。始まりの日からずいぶん遠くに来たような気持ちがしていたのに、あの日の純真さを、誠実さを今一度自分の中に確認したいと願う。
ここ数日、愛する人を失って嘆く人の寄り添いをしているからなおのこと、自分自身の愛情のあり方を問い直しているのかもしれない。