彼岸

 お彼岸や、お盆は遺族にとってとてもつらい気持ちにさせる。なぜもういないのか。還ってくるというけれど姿も見えず、声も聞こえない。そのことが何年たっても受け入れらることは無い。同じ遺族同士でも、悲しみの処理の仕方はそれぞれによって異なる。悲しみの消えない人にとって、何事もなく過ごしている家族には自分の痛みを分かち合うことはできない。
 悲しみは心にこもる。病死であれば、悲しみは何時か納得され寂しくてもまたその痛みを抱えて生きることが出来るようになる。しかし自死遺族はその死の責任を自分の方からはずすことは無い。いつまでも自分の責めとして担って生きてゆく。だから彼岸やお盆のように死が際立って象徴されるとき、それは自らを糾弾する以外の何ものでもなくなる。自らが最も愛し、信頼し、いつくしんだ人の死を自らの心に糾弾するとき、平静でいられるはずは無い。
 しかしその気持ちを分かち合う相手はいない。じっと自分の心に秘めて抱えてうずくまってやり過ごす。お墓に埋葬されている人たちと、それすらできずにお骨とともに暮らす人たちの悲しみのありようはまた異なる。その人、その人に負わされている重荷は異なるのだから、誰が正しくて、誰が間違っているということはない。世の習わしに従う必要もない。
 もし、身近にそういう人がいたら、何も言わず。そっと泣かせてあげて欲しい。何もできないのならせめて何もしないほうがましなときもあるのだ。その人自身がそこから立ち上がることを信じて、じっと見守っていて欲しい。心があれば、そのとき何が必要かはきっとわかるのだから。自分のやりたい援助ではなく、相手の求めている援助を、相手の求めている時に、差し出して欲しいと思う。