研修の分散会があった

TDL河の流れ

 それぞれの別々のグループに分かれて所属してゆく。そのうちひとりは結婚して他県に嫁ぐ。同年代の会話が興味深かった。ひとりはお見合い→結婚→退職→夫婦同姓という生き方を選択した。結論は三回目の遠距離デートで決めたという。もうひとりは共に暮らし始めて6年になるが入籍はしない→キャリアを目指す→子供は考えない→たまに彼が通ってくるだけでよい、という変則的な形を生きようとしている。親との関係もまた難しい物がある。話を聞いてゆくうちに今の若者が抱えている「ライフモデルの多様化」と「生きることの難しさ」を感じた。三回目になぜ決断できたのかとの問いかけに「結婚しようという目的で、出会っているからイエスかノーしかなかった」それを聞いてなんと合理的な決断なのかと思った。しかし、それゆえに人間そのものが見えていない戸惑いと不安が大きいと感じた。恋愛したからといって相手の人となりがすべて理解できるとは限らないけれど、むしろわけの分からなくなる度合いは大きいかもしれないけれど、まず人間を見て決めるのかどうかの、違いは大きいと感じた。生活の構造条件が先か、人間が先か、どちらがより安定して長続きするのだろうか。
 それとは別に、今の雇用のあり方、正社員か、契約かということひとつをとっても、人生設計のあり方が異なってくる。社会がどう変わっても、私たちだけは幸せにこのままなどということはありえないのだ。君を幸せにするなどという言葉が、入り込む隙間の無い、冗談にもいえないそんな社会に私たちは生きているのだ。結婚どころか、後この先何年一緒にいるのか、両親の介護どころか、そのお骨をどうしたらよいのか、位牌はどうなるか、お墓を誰が守るのか・・・こんなことを結婚前にまず考えなければ身動きの取れない一人っ子たちを目の前にして、すでに生きてきてその問題を考える必要も無かった年配者は、唖然として言葉を失った。
 私の身内で娘しかいなかった者はお婿さんを迎えた。私は公立の墓苑だったので事情を話して父の墓地使用権相続を認めてもらった。お寺さんの墓地はいずれにしても三代で使用権が切れるから再契約を結ばなければ無縁仏になってしまう。それでよいと親が言っても、自分の代で先祖の墓を無縁仏にしてよいのかという苦しみは子供の中にある。それがあって結婚に踏み切れない人たちを目の前にして、胸が痛む。民法で割り切れない状況がここにある。もはや法律が追いつかないスピードで社会が変化している。契約婚でさえ、その期間を決める困難があるのだという・・