気持ちはまだ冬

はと

 洗濯物を干した。もう日差しが強くなっているので色物は裏返して干す。もうすぐ春が来る。だけど気持ちは冷えたままだ。「自分の感受性くらい自分で守れ」と詩人は言うけれど、それができないから心がささくれてゆく。穏やかに一日が過ぎてゆくことは本当に珍しいこと。何かしら心に突き刺さることがある。そんなときは無駄に抗わないでじっとうずくまっているのがいいのかも知れない。衝動的にその場から飛び出していなくなりたいと願うけれど、いったいどこへ?ここから一歩でも遠くへ行きたいと願っても、ではどこへ?今日は何も対外的に背負ってはいなくても、明日ケースが二本入っている。その約束を破ることはできない。だから今日のこの思いを自力で軽くすることを考える。そこから一歩進むことが自己責任というものだ。
 友人の一人がいろいろあって、「生きることに限界を感じるときがある。だけど、残された人のことを考えると、私は自殺はしない。だから もう限界 と思ったときは餓死を選ぶ」といった。静かな静かな決意だなあと思った。その言葉に至るまでの過酷な長い年月を思うと、一般論で説得することはできなかった。もちろんその日が来ないことを願っている。私の気持ちも伝えた。しかしそれは私の気持ちであって、その人の気持ちではない。「私の気持ち」を割り込ませることはできない。その人の人生がこれ以上過酷でなくなるようにと祈る。「人生にも冬が来たら、その先は何時か小春日和もあると思いたいね」。その人は「永久凍土もあるさ」といった。「氷山も溶けているよ」といったら、「私はおぼれる白熊さ」といわれる。軽口の中に身動きの取れない苦しさを感じる。無力だなあ・・こんなとき私は何の助けにもなれない。傍にいて凍りつく友人の手を握っている。
 もしかしたら・・・私もまた同じ空の下にいるようなんだなあと思いながら。私の手を握り返してくれる人はいないのだなあと思いながら・・