児童虐待

 また犠牲者が出た。死に至るしつけとは何か。命をもって代価を払わなければならないほどのことがそこに存在したのか。怒りを感じる。絶対強者が絶対弱者に対して暴力をふるうこと自体許されることではない。たくさんの大人がその事実を知って見殺しにした。見守りとは何か。このケースでは見守りはすなわち見殺しではなかったのか。知っていて何もしなかったすべての大人が自分が何をしなければならなかったのか、何をしなかったからこの命は失われていったのかを、わが事として振り返って欲しい。かみ締めて欲しい。
 虐待はどこかのおろかな親がやったことだけではない。それを見守った「子供を見殺しにした」沢山のお仕事人間がいたのだ。本気で仕事をしなかった人々。
 私は猛烈に怒りを感じている。子殺しをした親にも親の事情や背景があると分かっていても、だからといって殺してしまったという事実は変わらない。失われた命をもはや償うことも取り戻すことも、できないのだ。自分を守ってくれる存在、自分が一番愛している存在が自分を殺したことをこの少年はどんな気持ちで体験し、亡くなって行ったのだろうか。
 私はしつけは教育ではないと心のそこから思っている。教育とは人を生かし、育てるものだ。しつけは調教のにおいがする。人間には心がある。心があるから人間なのだ。