訪問日なので行ったけれど

雑木林の中から

 玄関の扉が開かなかった。忘れて寝坊していたらしい。らしいというの訳があった。、わたしが事務所から家の電話にかけてもらい留守電を入れてもらった。事務所に戻って聞いたところ、その直後に事務所に電話がかかり友人を訪問していて戻るのが遅くなったという内容だった。私はその時間ドアの外にいたので、事務職員は出先からかけてきたと思ったらしい。しかしどしゃぶりの朝9時にワザワザ歩いて20分以上掛かる場所まで行くはずもない。第一家電の留守録を携帯を持っていない人がどうやって聞いたのだろうか。
 わたしの前ではいつも端整な姿を保っていたいと努力しておられた方だから、きっと寝過ごしたというささやかな不始末をさらけ出すことができなかったのだろう。わたしの前任者からの申し送り事項に「取り繕うための嘘」という言葉があったことを思い出した。誠実であることと嘘をついても保ちたい自分の姿の間に何を置いたら信頼が築けるのだろうか。そんなことはできっこないと私はおもう。どうしたら分かってもらえるのか。いや、こうやってこの人は70年以上の人生を生き、世の中を渡ってきたのだからとも思う。今まで二年以上のかかわりの中で、幾度もこの手の取り繕うための嘘を繰り返してきた。もはや生きるための知恵として身に付いてしまったものを、変える事は難しいと思った。
 この嘘が招く経済的な混乱を世の中では詐欺というのだけれど、自分が痛い目にあって罰を受けるまでこの人は変われないのだろうなと、気持ちがどんと重くなった。きっとこの人に嘘をつかせてしまう責任はわたしにもある。この人がありのままの自分を隠したくなる事情をわたしが持ち込んでいるのかもしれないとも思う。ありのままでいることは本当はとてつもない意志の力と努力を要する。寧ろ短時間であればかくありたい自分を演じている方がずっと楽なのだ。描くありたい自分をあたかも真実であるように見せるために限りなく嘘をつき続けている。
 心をわずらっている方の年の重ね方は難しい問題を沢山抱え込んでいると改めて思う。次の訪問日わたし達はまた何も起こらなかったかのように出会い、話し、分かれるのだろうな。巻き込まれず、だまされず、人としての最善を尽くそうと思う。