臓器移植法通過

 朝日新聞の記事を読みながら、胸が痛む。外国に行って移植が間に合わなくてなくなった幼い子の親の言葉。こんなに遅くなってごめんね。わたしはこの言葉の前で立ちすくむ。私も子供を失っている。何がいけなかったのか、どうすればよかったのか、手遅れになる前に救えなかったのか。親として成すべき事はなかったのか。今でも子供の死から私は立ち直ってはいない。しかし、私は臓器を移植の発想はない。
こんなにも切なく生きていて欲しいと願いながら。この言葉に表現されている死生観と私の持っている死生観の違いは何なのか。



いのちは誰のものなのか。



死んでいくままにすることがエゴであると責められることはないのか。
どうせ助からないのであれば移植に切り替えて、生きられる命を救うべきだとの発想はないのか。
果てしもなく一つのいのちをめぐって人間の欲は膨らまないのか。
まして近親者に優先的に移植が許可されると言う。



人情では判る。
自らの命を投げ出すことで移植が可能ならば脳死になる方法で自殺して
身体を提供する事が絶対におこらないと言えるのか。
現実に自殺の手段の不完全さで
脳死から心肺停止に至るまで数日掛かる例も沢山あるのだ。
あらゆる可能性を一つ一つつぶして
その上でこの方法しかないというのであればそれは致し方ないのかもしれない。



しかし、あえて世界を敵にするかもしれないが、
いのちは誰のものなのかを問いたい。



生きる可能性のある人のものなのか、
死んでゆく人のものなのか
死に行くものの権利はないのか。
命を静かに終ることが人間の権利として守られるのか。



生きることは死ぬことよりも優先順位が高いとこの法律は声高らかにいっている。
本当にそうなのか。
人間は神の領域に踏み込み
神の手を持とうとしている。
 

保険の適用がなされ
安い料金で手術が行われ
貧しきものであれ、億万長者であれ
同じ権利の下に置かれているのか。
  

全てのいのちに対してこの法は適用されうるのか。
暗黙の不平等はないのか。
そして残された家族、
決断した家族の心はどうなるのか。

死よ、
心優しい死よ。
安らぎの眠りであったはずのお前までもが騒がしく安らぎの座を降りるのか。
 



色々思い浮かぶことが多すぎて書ききれない。感情論ではない・・・命に関わる仕事をしてきたものとして心から思う。与えられるものの権利を主張するなら奪われるものの権利もまた同じに主張すべきではないのか。