体内時計

六郷堀

 人は身体の中に幾種類もの命の時間を持っている。24時間の体内時計は有名だからみんな知っているけれど、7日間の時計も持っている。3・5日が二つ。これは全て星の運行に関わっているのだそうな。命は不思議な記憶を抱えて存在しているのだなあと思う。星の運行が音楽の基礎になっているのも有名な話だけれど、人の生命活動もまた星の運行と同じものを基本としているというのもなんだか嬉しい。このところS学園高校の「いのちの授業」のための原稿を考えていて、臓器移植の成り行きを見守っているが、国会の開催期間とか、各政党の思惑とか、言っていることが信じられない。たった何時間かの論議でしかも居眠りをしていたり、私語をしていたりする中で、人の命の基本的な部分を決めているなんて信じがたい。このおろかな人たちは自分がその当事者ではないことにすっかり安心しきっているけれど、もし自分の大切な人がその事態になった時、自分の決めたいのちの規定に従うことが果たして出来るのだろうか。そもそも政治と生命倫理はなじみあうものなのだろうか。10年改正していないから、見直ししていないからといいつつやるようなことなのか。他国で移植が何例あるから日本でも。自給自足の原則はなど、聞いていて胸が痛い。自分の国で臓器をまかなうべし、よその国の臓器を買うななどと聞くに堪えがたい言葉が伝えられている。確かにお金のある国、お金のある人々が貧しい国のいのちを買っているような印象はおぞましい。
 正直に言えば、臓器移植というあり方が望ましいことなのだろうかとも思う。自分の子が死んでいったとき、もしも誰かの何かを頂けばこの命が助かると分かっていたら、私はそうしただろうか。仮定の発言は慎むべきと分かっていてもなおそのことを思う。死ぬことは残されたものにとってこの上ない悲しみだ。しかし、それが誰かの命と関わって死ぬまでの時間が延びるものならばそうしたいと思うだろうか。おとぎ話で繰り返し語られてきた「不老不死の為に○の生き胆を抜く」とか「○のXを抜く」とか・・・あの発想と重なってゆくのは、あの単純明快な言葉がすとんと腑に落ちてゆく何かがあるからなのだろう。
 いのちのことはいのちに任せる。人がそれ以上のことをすることは果たしてよいことなのだろうか。人間の持つ邪悪な部分を全て捨て去ってただ純粋に命のことだけを考えることが出来るならばそれは認められるのかもしれない。ブラックマーケットや様々な思惑や、それによって利潤を追求する人が皆無ならば・・・人間の歴史を顧みるとき、私たちは実におぞましいものを記録として残している。医学が戦争によって大きく進歩してきたように、人は他者の死によって生きるものに利をもたらしてきた。生体実験、人体実験の歴史が物語るものを闇に葬っていいはずがない。人間が正義を振りかざす時、必ず影にある邪悪な部分が息を潜めている。人は弱肉強食の歴史を持っているのだ。
 人の死という決定的なことをこんなにも簡単に決めようとしていることに怒りを感じる。何故医学に携わっているものたち、こころに関わっている人たちがその良心に従って声を上げないのか。悲しみの現場にいるものが声を上げないのは何故か。
 今国会で決まったにせよ、流れたにせよ一度突きつけられたこの命題は消えてなくなることはないだろう。これは一人一人の問題なのだ。許されるならば国民投票にかけて欲しい。私の命の終わりは私のものだ。医学のものでも、患者のものでもない。私が神から与えられ、親から受け継いで守ってきたものだ。その終わりのときを法律によって決められ、他者の意思によって操作されるのはごめんだ。その気持ちが意思表示できない人々の存在を思うとき、わたしたちは真剣にこの問題を考え声を上げてゆく必要があると思う。