描くということ

 アルコール依存の娘さんとであった。家族内での性的虐待があって一時避難の形で学生生活を送っていたがそこでアルコールに溺れた。溺れたというよりも飲むと苦しくて身体に合わないと分かっていても心を黙らせるためにはそれしかなかったといった方がよいだろう。
 多くの家族がそうであったようにこの家族も被害者である彼女の言葉ではなく加害者の言葉を信じた。そんなことは無かった。それはあのこのでたらめだ。作り事だ。そうすることで家族は崩壊を免れた。しかし、被害者は真実を語ることを奪われ、正気でいることができなくなった。一人の人間の人生の喜びも希望も可能性も奪ったのは誰なのか。彼女を守る立場の大人たちだった。
 彼女は幸いにしてどんなものも奪うことのできないものを持っている。絵を描くこと。私と話していて彼女はそのことに気が付いた。もう一度絵を描こう。自分の中にある悲しみに色を与えよう。できるかどうかはわからないけれど、私には絵が描ける力があるかもしれない。アルコールは、気が付けば飲んでいなかったという日が来るかもしれない。止めようではなく、もういらないと思う日が来るかもしれない。
 AA(アルカホーリック・アノニマス:無名のアルコール依存者)という依存症の自助グループがある。彼女もそこに連なっている。まだ浅い付き合い方だけれど、いつの日かその中で新しい自分を見出すかもしれない。今はなじめなくて違和感だけの集まりだけれど、孤独でいるよりはまだよいかもしれない。アルコール依存症と一くくりにはできない沢山の思いを、個人の事件を、あの場所は優しく包み込んでくれる。みんな同じ痛みを知っているよ。無理して言わなくてもいい。そこに座って自分と向き合うだけでもいいんだから・・・いろんな人がいる。それが分かるだけでもよいと私は思う。彼女とはもう会うチャンスが無いけれど、私はいつもスケッチブックを開く時、自分もスケッチの筆を取るとき、彼女に呼びかける「私はまだ描いているよ。あなたも描いている?」