やっと

空欄になっていた日記を全部埋めることが出来た。いろいろなことがあったのだとしみじみ思った。何も起きなかった日がいとおしい。自分自身の記憶にさえ残らない一日のなんと穏やかで暖かいことか。それに比べて心ささくれる一日はいつまでも記憶の中に苦味を残す。何日たっても振り返ってその日の出来事をたとえ小さな一文であっても記す自分は、本当はすさんだ暮らしを抱えているのかもしれない。
 平和というものは後に何も匂いを残さず過ぎてゆく。思い出そうにも何も手がかりがない。なんと稀有な一日なのか。それなのに取り戻すことが出来ない。認知症の方と向き合っていて、時々、顔の中に華のような微笑が広がることがある。例えたった今、困窮の中にいてもその一瞬この方の心には不安のかけらもない。なんと穏やかな愛しい微笑だろうか。認知症は本人にしてみれば不安で生きにくい症状である。しかし認知症ゆえに何にもとらわれない、現実に押しつぶされない穏やかな一瞬を、持てることは素晴らしいことではないか。慰めに満ちたその一瞬をその方の全人格の表出と受け止める。
 人はこうやって一つ一つ人生の重さをおいて旅立ってゆく。それは見方を変えれば幸いなことである。見守るものがゆとりを持ってさえいれば本来当たり前のことなのだけれど。認知症が怒りとして現れる方の人生はそれだけ厳しく自分を押し殺してきた人生ではなかろうか。今、心が蓋を押しのけて本来の自分を守るために怒りを吐き出している。もっとこうなる前に穏やかな受け入れに満ちた時間をもてたなら、愛されることに満ち足りていればこうはならなかったのではないだろうか。
 私は自分がきっと夜叉のように荒れ狂う最後を過ごすような、そんな気がしてならない。押し殺すことの多い、黙するしかないもろもろの事を抱えている私は、恐れを感じる。いつの日にか自分が制御できなくなって、パンドラの箱のように押し殺していたものが、皆吐き出されてしまったらどうしようかと。その前に速やかに船に乗れることを願っている。