認識の違い

修道院の中庭

 NPO自死遺族支援を立ち上げる時指導者として招聘した某教授。第一人者ということであったが基本的な認識で私たちの考え方と大きく異なることが分かって私たちは独自の路線を打ち出した。その後その方がいろいろな場所で実際的に活動の場を広げておられることは知っていた。今日何気なく或る雑誌の料理の特集号を買った。その時は気が付かなかったが、読みながら何故この特集にこの人がと、家で気が付いた。全く買うときは気が付かなかった。改めて読み直しなお思うことが多々ある。
 基本的に私たちは病死遺族と自死遺族は立ち位置が違うと思う。如何に悲惨な状況であっても、病死の場合は遺族はその死の責任を問われない。また死の原因がはっきりしている。しかし自死の場合遺族はまず何故防げなかったのか、自分が原因を作ったのではないのか、具体的に死の手段は明確であっても、死そのものの真の原因は分からない。うつがあったにしてもそのうつを引き起こした原因は何か。例え遺書があってもそれだけでこの人は死んだのかと納得がいかない。死をもたらしその行為をなしたのは亡くなった人自身である。加害者と犠牲者が同じ一人の死の中に同居している。この事情を遺族は身に引き受けて遺族としての自分を見つめなければならない。これだけの違いだけでも大変な違いなのに、その上に社会的な非難、好奇心、咎めを身に受ける。警察の事情徴収、医師による検視、司法解剖が必要なこともある。そして多くの場合そのなきがらを見も知らぬ第三者の目に晒さねばならない。宗教的な制裁を受ける場合もある。1960年代まで多くのキリスト教国では自殺は神にそむく最も重大な罪「大罪」として教会での葬儀も埋葬も行われなかった。そしてその財産は国家に没収された。犯罪として社会から処罰されたのだ。現在、法が改正されて直接的に社会的制裁は行われなくなったが、一皮剥けば世の中の考え方はそんなに簡単に変わるものではない。そのことを考慮に入れると、基本的に「病死も自死も同じ」という認識は受け入れられない。この一点で私たちはその教授とは別のスタンスで遺族支援をすることに決めた。
 学問はいかなる論拠に立とうとも、いかなる視点で見ようともそれはその研究者の個人の自由である。しかし人と関わり、その精神世界に踏み込むのであれば間違いは許されない。その後のその教授の遺族との様々なかかわりを思い浮かべながら、爽やかに微笑むその写真を眺めた。認識の違い。それだけで片付けられることなのだろうかと思いつつも、納得のいかない思いを抱えて読んだ。この感覚は直接遺族と関わったものでなければ分かり得ないものなのだとも思う。果たして自殺遺族でないもの、自殺遺族と深くかかわったことのないものが「死は皆同じ」という立場に立ったとしたらその自死遺族支援は心の闇を支え得るのだろうか。ましてこの教授は自死遺族のグリーフケアのエキスパートとして自分を位置づけている。遺族心情を知ってなおこの立場なのか。怖いと思った。
 このことは私自身の課題として今後きちんと論文の形でまとめなければならないようにも思う。それは長年遺族と共に生きてきた者としての責任でもある。
 さあ、今日は早朝から仕事があります。行ってきます。