ガールスカウト

卸町の欅並木も春らしく

養成担当の任期がまだ終らないので今年も研修を担当することになっている。大人を育てることは少女を育てることに繋がるから、やっていて大人を育てることの困難をかみ締めることも多いのだが、自分の利益よりも子供達の将来を思う人たちと一緒に仕事をしていると、人間っていいものだなと思える。いろいろな生き方をしてきた人たちの中にいられることは幸いなことだ。さあ今日はわたしにとってどんな一日になるのだろうか。なんのかのいっても色々な組織の中でいつの間にか研修担当をしている。私はとことん人を育てることが好きなのだなあ。

 ダナン神父様がエンカウンターの最終日の朝必ず言う言葉がある。
「今日はあなたの残された生涯の第一日目です」
その言葉を聴くと「生きていけ」と背を押されるように感じる。生きてよいのだよ。例え今までの人生が思い通りにならない日々であっても、今日の扉を自分の手で開けてごらんといわれていると感じる。

 リジュの聖テレジアの自叙伝の中に「きのうは神の哀れみにゆだね、明日は神の御手にゆだね、今日一日を生きればよいのです」という言葉がある。今ではあちこちで使われて珍しくもない言葉だが、18世紀の旧体質の感想修道会の中でこの言葉が生まれたことに驚く。償いと犠牲が当たり前で、悔い改めの中で人は救われると考えられている中で「ゆだねる」という発想は表現するだけでもどんなに凄いことだっただろうか。今であれば「解放の神学」や、「弱さの神学」が生まれ、第三国やマイノリティに受け入れられ、その場所から逆に一般の人も実は自分達こそこの場所にたつ必要があるのだと判ってきた。神は犠牲を望まれないということは判りきったことになりつつある。
 私が子供の頃は断食とか償いとか犠牲をささげるとかの言葉はごくふつうに教会の中で語られ、普通の信者の口からも出ていた。子供心に大人になることが恐ろしかった。子供は免除されていたから。ただ自分が大人になった時、その言葉はいたずらに苦しむことを目指すのではなく自分では納得できない理不尽な人生の苦難に意味を与え受け入れて生きるためのものだったと分かった。死なずに生きるために納得して腑に落として生きねばならないほど人生は理不尽で苦しみに溢れているのだと分かった。そう考えればこの考え方は、フランクルの「ロゴセラピー」にも通じるところがあり、心理学的にも有意味なことだとわかった。