天気予報が当たりすぎ

mugisan2009-04-25

 ドンぴしゃりと当たりすぎて、意外性がなくなってしまった。お天気がまるで分かりきった予定のようになってしまう。もう雨が降ってもがっかりもドキドキもしない。何だかとても便利だけれど、つまらない。今日はひたすらに雨が降りしきっている。これから大風が吹くのだそうな。唯一予報が出来ないのが大地震というからなんだかなあ・・・・・
 毎日が時間競争でくたびれてしまった。今日は朝から転居通知を最低限のところに出す。これれさえも書き渋って出していないところがある。関係を切りたいのだろうかとふと思ったり、もうこの方とはここまでと思っていることに改めて気がついて唖然としたり。無意識の中に潜んでいる真実って怖い。
こんな日は花でも買って、美味しいものを作って自分らしく楽しめばよいのだが、もうくたびれきってしまった。伸びきったゴムみたいな感性ではいいものはかけない。私の仕事は人の心に寄り添うこと。しかし自分自身の心を吐き出す場所がないから痛みが濃縮されて心が破裂しそうになる。あの子が亡くなった日が近づいてくるといつもこんな悲しみが押し寄せ、胸いっぱいに溢れておぼれそうになる。誰にも訴えず、語らない言葉が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。私は人の心を受け止めて、その扉を開き、風を入れることを仕事としてきた。だからこそ私の痛みは誰かにゆだねなければならないのだが、私にはその誰かがいない。いつも一方的に受け入れるだけ。
 「君は話しているではないか」と言われるたびに、話すことの出来ないこの深い痛みを相手は知らない。何故そんなことを言うのか。それは口封じでしかないと思う。きっと相手もまた悲しい言葉は苦痛なのだろう。
あの子はどんな思いでこの時期を過ごしたのだろうか。あの子が風を身に受けてこの季節を駆け抜けていったように、私もまた自分の季節を走り続けているのだろう。人はそれぞれの舟をこぐ。いのちの川を渡りきるまで。その岸辺の風景は本人にも分からない。船が岸辺に着いた時初めてここがその場所だったと気がつく。人生は時の流れに船を浮かべてゆったりと流れを行くもののようだ。この季節、私は限りなく悲しみの中にいる。孤独を感じる。遺族達の言葉はかたられなかった私自身の言葉に重なってゆく。