愛すること

パリの街角のピーマン(リサイクルボッ

 コーヒーを飲みながら話をしていて、ふと隣の席のご婦人の会話が飛び込んできた。『愛すること』について切々と語っておられた。その人の言葉を払いのけても払いのけても言葉が飛び込んでくる。私にとって『愛すること』が観念として大きな場所を占めているから吹っ切れないのだと思った。そこで聞こえてくるものは拒まないで単に聞き流してゆこうと思った。人間の耳は優秀な選択機能を持っている。聴こうと思えばどんな雑踏の中ででも目的の単語を拾うことができる。その声を聞き分けることができる。反対にその声を雑踏の中に消してしまうこともまた可能である。そうやってほぼ一時間私は時々飛び込んでくる『愛する』と言う単語を拾いながら何とか自分の目的の作業もすることができた。
 それにしてもいまどき喫茶店の片隅で何時間も熱っぽく『愛する』ことについて語り続けられるエネルギーがすごいなと思った。具体的なことではなく聖書に基づいての哲学的な(と本人が思っているらしい)ことについて。聞き役のエネルギーも大したものだと思った。
 ふと思った。私のかかわっている『孤独』な人々にとって『愛』があれば全ては解決するのだろうか。愛は対象がなければ存在しない。愛するためにはまずその対象が必要。私のクライエントに必要なのは寧ろ『愛』ではなく『かかわりの具体的な対象』であろう。愛することを具体化してゆくには例え距離感はあっても物理的に離れていても、個として具体的に確認できる対象が必要なのだ。たとえ相手が神であってもその瞬間は具体的で実存的ではっきりとした対象なのだ。
 一人であることと、独りであることの大きな違いはその対象を現実のものとして自分の中に持っているかどうかなのではないだろうか。人は一人では生きてゆけないが独りにならなければ自立できないという存在の原則はここにあるように思う。もたれ掛かっていては真の愛の実現は不可能だろう・・・