この休み中に

木立も冬の姿に

 原稿を書いて盛岡にいく支度もして、姫のパッキングもしなければならない。なのに親分は別のプランがあるらしい。もう彼の頭の中にある計画には触らないことにしようと思う。せめて自分の分を仕上げてなお彼のやり分をカバーできれば例えそれが無駄になっても私は気持ちが楽になるだろう。 今回は私の分担に自分の生き方を振り返るセッションがあって、私は何処まで戻っても看病,介護の連続であったことに今さらながらため息が出る。
 自分を突き放して観察する。いったいこの娘はいつ何処の時期に自分のために喜ぶ時間があったのだろうか。一体いつ自分を遊ばせる時間があったのだろうか。この娘の周りにいた大人たちは一体この子にこんな重荷を負わせてどう思っていたのだろうか。もし私がそばにいたらきっとこういってこの子の背から重荷を外しただろう。
 長女だから、幼い妹がいるから、母親が病弱だから、父親が仕事で留守がちだから。いろいろな理由はあったにしろこの子は大人になったらきっと自分の知らない世界のまぶしさに外に出てゆく勇気をもてないだろう。遊ぶことも、自分のために何かをすることも罪悪だと思うだろう。人間はもっと楽しく生きていいのだと誰かが教えてあげなければ。
 私がかかわっているACの人たちも同じような体験をしている。私には彼らの恐れや痛さが分かる。人魚姫のようにこの世界に踏み出す一歩一歩が恐ろしく痛む。
 私はその足に柔らかな布で木の実の油を塗る。(聖書的な意味で)「貴方は生きることを楽しんでいいのだよ。もっと自由に生きてもいいのだよ」彼らが自分の世界に自分の力で飛び出してゆく時、私の痛みも意味を持つ。傷ついたからこそ慰めることが出来る痛みもあるのだから。