いつもの用の朝が来て、いつものように仕事が始まる。

キリストは我が家の・・

 こんな当たり前のことがありがたいと感じるのは担当している方がどんどん入院してしまい、私の手を離れてゆくから。どんなに貧しい暮らしであってもそこに自分の生活があり、自分が決定権を持って暮らしていることは人間を誇り高くする。施設に入り、病院に入り自分の気持ちがどうにも相手に伝わらないまま飲み込んで暮らしていると段々感性が摩滅していってしまう。鈍にならなければ辛い気持ちが抱えきれないのだろう。施設が悪いというのではない。基本が、立場が個と集団では異なるといいたいのだ。集団の中で保障される生活の質と利便性と安全を考えれば個の不便さと危険性は、はかりに乗らないことは十重知っている。その上で私は危険性があっても、自由度の高い個の生活を愛しいと思う。言葉が足りないな。個の生活であっても、不自由な身体では最早自立生活は不自由さ以外の何ものでもなければ、最早選択の余地は無い。集団で暮らすほうを選ばざるを得ない。しかし社会的資源を活用しながら出来る限りの不自由さを抱えこんでも自分の生き方を貫くこともまた大切なことだと思う。自分が自分で決められることを一旦手放してしまったらそれを再び手元に取り戻すことはとても難しいことだから。便利さと快適さと尊厳を同時に全て手の中に持つことは中々両立しがたいものだと私は感じている。