鳥がふるさとに帰ってゆく

わたり

もう季節は春なのだ。たとえ引越しの準備で追われていても、心の中に湧き上がってくる開放感は確実にある。本来春は心が膨らむ季節なのだ。それがたまたま学校教育法の区分で受験があったり、会計年度で転勤があったりするから苦しい季節になっちゃっているけど。
 まあキリスト教ではやがて来る復活祭の準備の期間で今が四旬節、苦しみの季節だ。メメントモリを思い心に刻み、日々死の黙想を重ねる。もちろん体の死だけではない。生き方の中で、もはや捨ててしまうもの、切り捨てるべきもの、そして自分がいのちを懸けても惜しくない、もっとも大切にすべきものとの関係性をただしてゆく。立ち返るために、神に向かうために不要のものを捨ててゆく季節。禊に近いのかもしれない。
 昔は苦行をしたり断食をしたり犠牲をささげたりしたが、第二バチカン公会議以降人間性に逆らうような無理なことは、神の望みに反する行為として行われないようになった。神は人間に苦しみではなく希望を与えたいと、苦しむためではなく喜ぶためにいのちを下さったのだという考え方が主流になっている。もちろん神の照らしの中でのことだけれど。