穏やかに生きていくこと

社宅で日中居住している人数は少ないと思う。少し子供が大きくなった女たちは働きに出ているか、男たちの多くが単身赴任だから日中も居住している部屋は少ない。。幼い子供を抱えたわずかな家族が日中残っている。夏はベランダ側の窓を開け放っているので声が筒抜けになる。ベランダ側に堀と雑木林があるから住人にしてみればココから先は無人地帯のような気持ちになる。この夏、気になる家族がいる。幼い子供の泣き声としかりつけている母親の声が幾度となく飛び込んでくる。いつも激しく泣く子供の声と母親らしき人の声が重なって暫く経つと聞こえなくなる。かつてこんな時はお隣のおばちゃんが「まあまあ、おばちゃんが一緒に謝ってあげるから」と割って入り「どうしたの」と母親の怒りの解きほぐしを図ってくれた。しかし今そんなおせっかいなご近所はいない。私もその声の発生源が何処なのか分らない。調べれば声を頼りに調べられるのだろうが下に下りて庭を歩くのもためらわれる。何となく下の階の住人のプライバシーを侵すような気分になるのだ。まるで自分の住んでいる敷地が全て進入禁止になっているような感じを受ける。いつからこんなにも窮屈な暮らし方になったのだろうか。近隣の力がなくなったと聴くがコミニュテイの崩壊が社会に及ぼしている影響をもっと深刻に考えるべきではないかと思う。人は一人では生きては行けない。かつてご近所づきあいという名前で保たれていた相互扶助は今殆ど失われてしまっている。この中で在宅介護や障害者の地域自立支援等が行政の力で行われているが、心から出た行為の細やかさと契約で与えられる細やかさは大きな開きがある。人の心はお金では買えない。全てに規則をあてはめ、時間経費を換算して保険でまかなおうとしても行き届くはずが無い。かえってそのシステムがある故に人が人に直接関わることが難しくなっている場面もある。
 朝から二時間ほど泣いていた子供の声はもうしなくなった。あれが虐待であるかどうかは分らないが、親子にとって幸せな時間では無いように感じる。何ができるのか。社宅の難しさを思う。