雨が降って

 雨の音で目が覚めた。静かなささやかな気配。それなのに雨の音は周りの音からはっきりと聞き分けられるほどしっかりした音だ。雨の音を聞いているとふと子供達を育ててきた自分を思いだす。私の人生が幸せなものなのか、不幸せなものなのか。流産で三人の子をなくし、宝物だった16歳の息子を亡くし、私は悲しみを沢山味わって生きてきた。その悲しみは生涯なくなることはないと思う。私のの命の泉の水は悲しみを含んだ水だ。では不幸せなのかと言えば不幸せという感じはしない。不幸せと言う感覚のない悲しみを抱えた私という存在が今の私だと感じる。
 それはこの春の雨のような存在なのかもしれない。厳しい冬からホッと抜け出して、暖かな風も吹く、乾いた風も吹く、そんな中にしっとりと雨が降る朝がある。静まりの中に音が続く。人の心がなだめられるのはこんな日なのだとも思う。
 私が接する人たちはそれぞれ厳しい人生を歩いてきた方達ばかりだ。犯罪の被害者であったり、虐待の被害者であったり、体や心や精神に重複して障害を抱えていたりだが共通しているのは周りに愛してくれる人が居ないことだ。この社会の中にひっそりと孤独に生きている人たち。確かに社会福祉の関係者や介護保険のヘルパーやソーシャルワーカーや私のような人権擁護関係者が出入りはするがあくまで仕事の関わりしかもてない。関わる時間も関わりの内容も契約できちんと決められている。決して自由な関わりではない。入れ替わり立ち替わり人が尋ねてきても心を開いて温めあったり抱きしめて慰めあったり出来ない関係。優しく接していてもどこかに『お仕事』が匂ってしまう。こうやってこの方が亡くなるまで社会が関係を持っていくのだが、果たしてこれだけでいいのだろうかとも思う。見かけは孤独ではないが本質的には果てしもなく孤独ではないのか。もっと暖かなもっと濃厚な心の交流が必要なのではないだろうかと。死に至るまでの残された人生の時間を、締めくくりのための時間をもっと質を考えて大切にしてあげなくていいのかと。心の中で何時も自問自答するけれど、精一杯今自分の契約の範囲内で出来ることを模索して時間は過ぎていってしまう。その一日の積み重ね。