子供達が

mugisan2005-04-28

 それぞれの中でこの一年をかみ締めているのが分かる。子供といっても姫様を除いて皆もう20歳を超えているから、自分の心の中を容易に開きはしないから、彼らのブログの中の些細な一言や、言葉の切れ端でそれを感じるだけだが、私たちの中にある痛みと、共通のものを感じる。たまたま今度の脱線事故で、家を出たままそれが最後の会話になったたくさんの家族が居る。状況は異なるが予期しない状況で突然亡くなってしまったことが、自分達の気持ちと重なってしまうのだろう。なくなった時刻になると眼が覚めてしまう。そしてあのときの悲しみが襲ってくる。季節がだんだんその時期に近づいてきているからかもしれない。悲しみの杯がふちまで満ちてきたからかもしれない。
 私たちは自分達だけが悲しいなどと思っているわけではない。もっと不幸せな人々が何十倍にもなんぜんばいにもおられることも知っている。それでも痛みは個別のものである。ほかのひとの不幸を見て我慢したり、慎んだりできるものではないのだ。亡くなった人が悲しむからもう元気になりなさいといわれる事がどれほどむごい事か。もう帰ってこないのだから過去は切り捨てて前向きに行きなさいという言葉の残酷さ。善意の心が発するこれらの言葉は遺族の息の根を止める。
 涙は涸れはてるものではない。痛みはなくなるものではない。人はそれに耐えてじっと自分の一日を生きてゆくのだ。その中で同じように悩み苦しむ人に心の底からの同情といたわりを分かち合う事で、自分自身の人生を生きてゆくのだ。その事が身に沁みて分かるために、人は愛するのかもしれない。死の意味があるのかもしれない。愛はいのちに根を下ろしているのかもしれない。