今年最後の9月が行く

ベガルタ球場の向かい側

 今日で9月が終わる。寒い。残暑なんてなかったような気がする。きのう「遺族の掲示板」を見ていて、思う事が色々あった。いずれきちんとした形で、と思う。思いつきで形にすると後からの落ち込みが酷くて、立ち直りが大変だから。
 誰もが自分の心に耐え難い傷を抱えてそれをひっそりと沈めて生きているのだと思う。それはその人の心の中にだけあって回りには見えない。見えないけれどそれを抱えている人の優しさを感じる事がある。アコヤガイが異物を核にして真珠玉をつくるように人もまた心の中に自分の傷を受け入れて結晶させてゆく作業場を持っているように感じる。くぐってきた嵐の話はしないけれど、その人の傍にいると凛と背筋が伸びる人が居る。ただ傍にいるだけで伝えるものを自分の中に育んだ人の年月を思う。裁くのではなく包み込む事で相手に自分を見つめる勇気を与えられる人が居る。静かなその人に接すると、声高に言葉多い自分の荒々しさが恥ずかしくなる。その人のように、善く年を重ねたいものだと思う。
 老人施設でカウンセリングをしていると、はるか昔に亡くなってしまった人の言葉にまだ傷つき続けて居る人の多さに驚く。かつて親が子供に言った言葉、評価が子供の心に消えない傷をつけた。すでに親の年齢をを超えて長生きしている子供の心に残った思い出が今現在の人間関係を支配している。大人が子供に接する時こそ、真摯に心を込めて自分を律して欲しいと思う。エーリッヒ・ケストナーが「飛ぶ教室」の序文で「子供の涙が大人の涙より小さいと言う事はない」とかいているが、大人は子供と向き合う時に自分の感情のはけ口にしてしまいやすい。自分より力なきものに対して、無分別に接することは自らの人としての在り方を省みない行為である。親が子供を育てる時、その子が生涯を通して自分自身を「善き者」として受け入れて生きられる生き方を伝えること。それがいのちを育み、この世に送り出した者のなすべき事であると思う。
 のんきにポケーとしていたいのだけれど、人と関わる仕事だから、頭の中にいろんな扉があって、今はこの扉が開いてしまっているからしかたがないかな。
 あ、思い出した。このところ街を歩くとキンモクセイが香ってくる。昔荻窪に住んでいたとき近所に大きなこんもりしたキンモクセイの木があった。オーデコロンのかわりにポケットに花を拾って入れていたっけ。ふと見たガーデニングのカタログにキンモクセイの苗があった。思わず注文してしまった。同じ理由で既に沈丁花の鉢ももっている。これで春と秋の香りは手に入った。夏は梔子だね。荻窪の家の玄関に大きな梔子があった。カンパチの排気ガスで花が薄汚れていてキライだった。道路を何本か隔てていてもこんなに空気は汚れているんだと驚いた。やがて光化学スモッグと言う言葉が一般化したな。
 植木鉢が引越しの時どれくらい運送やに嫌われるか知っているから、フダンは我慢しているんだけど。あと「しだれ桂」の苗を見つけたら迷わず買ってしまうだろうな。岩手大学のひょうたん池のほとりに一本美しい桂の木がある。大学の帰りに夕方あそこを通るとまるで濃厚なミルクティーのような匂いがあたりを流れてゆく。帯になって匂いが流れる事を体験したのは、あの時が始めて。浄法寺にも「匂い桂」と呼ばれる大木がある。桂は節があって扱いにくい木だと聞いた。大木になるので個人の庭では管理が難しいらしいがどうしても欲しい。最後に住む自分の庭に、季節ごとに香りの楽しめる木があったらいいと思う。たとえ寝たきりになっても、香りは部屋の中にもながれこんでくるから。目が見えなくなっても、匂いが分かれば季節を感じる事が出来る。オールドローズも欲しい品種がある。バラは私よりも親分のほうが上手だろうな。とてもきむずかしいから。ねえ星の王子様。