今日はあめですか

畑の風景

 しとしと降っています。秋の雨です。
 朝スナフキンを会社に送っていきました。ラジオで、8歳の長男を心臓病でなくした御母さんが、下の二人の子供が8歳に近づいてきたら、この子も死んでしまうのではないか、と怖くなって、心を病んでしまった。という手紙をよせていました。何時よくなるという見通しは立たないけれど、と。理屈ではないのです。失ってしまった事が癒されないまま自分が時の流れに漂っているのに、自分の外では時間が流れていって、家族も成長していってついてゆけないのです。変化に耐えられないのです。
 私も季節が巡ってゆくことが逆らいようもなく、あの日からの距離が開いてゆくようで耐えられないのです。あの子が亡くなった日が過去のかなたに流されていってしまう事が辛いのです。来年の春が来たら、私はどんな気持ちでその日を迎えるのだろうか。時薬という言葉があるけれど、時が過ぎても受け入れる事が出来ない悲しみがあることを初めて知りました。
 草や小さな木を植えて自分の心を重ねる事の出来る時間空間を持つことで、少しずつ自分を立たせてゆくことが出来るようになるかもしれないな。園芸療法だけど、私にはむいているかもしれないと思う。花の咲かない様々な表情を持った緑を一つの籠に植えている。あの子のお供えに沢山のフラワーアレンジメントを頂いた。その籠に土を入れて植え込んでいる。
 親を亡くしたときは、悲しみの種類が違っていた様に思う。母の時は、ガンの苦しみが長くて悲惨だったから、やっと楽になった、良かったね御母さんと言う気持ちだった。娘としての寂しさは今でもこころにあるけれど。父は外国でなくなったから、その事実が受け入れられず、一年以上黒以外の色のものを身に付ける事が出来なかった。納得するまで喪に服して居たかった。
 子供を亡くした今、まだ日常が戻ってこない。時間が止まってしまって、日常生活を意識してこなしている。まだ私を必要としている子供達がいる事が、正常を保たせてくれていると思う。家族に感謝しよう。自分ひとりではない、それぞれが痛みを抱えて生きている。
 いつか心の喪章をはずす時が来るまで、身に着けていようと思う。あの子が私に残していった「思い」を生きるために。あの子は私達が悲しみ続けることを知ったら、きっと辛がるだろう。泣くだろうな。スマネッというだろうな。ゴメンというだろうな。分かっているんだよ。
 きっと君が喜ぶような生き方をしてゆくから。もう少し元気になったらね。
 姫様は毎日へとへとになって帰ってくる。中学校ってあんなにくたびれるものだったのかしらと思う。君たちの学年が荒れた学年で、そのあおりを食らって下の学年が締め付けがきつくて、始めはおとなしかったけど、今になって無気力状態で学力が落ち込んで先生達が青くなっているんだってさ。校内暴力に走らないで不登校が大量発生だってさ。学校の指導方針でこんなにも子供達の学校生活が変化するのは、子供達にとっていいことではないよね。学校が子供にとって安心して生きていてよい場所でなかったら、姫様のように、緊張の連続でへとへとのなってしまう子が不登校へ向かっても不思議はない。
 彼女はまだ仲のよい友達が居て助かっているけれど、君の写真をストラップに仕込んでカバンにぶら下げて学校へ行っているよ。守ってあげてね。
 どうしてもやらなければならない事があるってことは、救いだね。時間で動かなければならないから、いやでも気持ちを切り替えてゆくもの。秋になったら、少しは変わるかもしれないと思った。でもまだ4ヶ月しかたっていない。悲しくて当たり前ではないか。悶えていて当たり前ではないか。元気が無くて当たり前ではないか。それでも、毎日食べて、眠っている事はすごい事なんだよ。ソウ思って胸張っていいんだよ、自分。
 彼のスナップを貼り付けた。辛くて駄目だった。一緒に種をまいた一年目に借りた農園のスナップに差し替えた。良く働いたし、遊んだ場所。本気で鬼ごっこをしたし、ドッチボールもした。
 今日の晩御飯
 鶏肉を塩でもんでキッチリラップして塩鳥を作っておく。フライパンを熱くして適当な大きさに切った鶏肉を油を引かないでじんわりと焼き上げる。肉はフンワリ皮はカリカリに仕上がれば最高。ドレッシングはあっても無くても。我が家では梅味噌にマヨネーズと蜂蜜を少し入れて練ったものをかけた。つけあわせはレタス+きゅうり+トマトのさいの目に切ったものにオリーブオイルを回しかける。なすの水キムチも。とりたてのナスはあくも無くさわやかな味。
 みそしるは、フダンソウと油揚げ。御飯は古代米と雑穀。白い御飯をどうしても食べたい人には、冷凍御飯を用意してある。少し多めに炊いて一膳づつ冷凍してある。デザートは、ナタデココ入りの杏仁豆腐。