今日はメチャ忙しい

泉岳に行く,夕空

 午前中は中学校の役員会で健全育成の機関紙を作りに行かねばならない。午後は、仕事で19時まで拘束される。2時間の作業予定を1時間で完了。ただし疲れた。どうやら私は、若い御母さん達の毒気に弱いらしい。たった2時間なのにグッタリしてしまった。テンションの高さの違いかもしれない。一緒に居て、楽しくない。御互い様かも知れないが、言葉が通じてゆかない感じがする。
 人と併せて行くことが苦痛になりつつあるぞ。要注意
自分の世界を守りたくなってしまう。だれも、要らなくなってしまう。自己完結したくなる。引き篭もりってこんな気分なんだろうか。案外居心地が良かったりして。ヤバイ
 午後から、また人の気持ちを聞きに行く。昔、カウンセラー仲間で、当時は分裂症といっていた統合失調症を専門に、聴いていた人が居たけど、この頃私もご指名を受ける事が多くなった。25年やっていて、やっと一緒に漂う事を共有できるようになったかも。先を急がなくなったし、出口を必死に探さなくなった。淡々と時間を共有してそこで、ふわりと着地できれば最高。これが現実に期日を切られて結論を求められたら辛いだろうな。生きてゆく事は、時々とても残酷だなって思う。心はカレンダーに従って整理できたり、準備できたりはしない。
 「失われし時を求めて」プルースト。マドレーヌを紅茶に浸して、幼い日の記憶に触れて、吐き気を感じたのはサルトルの『嘔吐』だったろうか。ぼんやりと思い出している。16,17,18歳浴びるほど本にのめりこんだ。
 私が失ってきたものは、生きようとする貪欲さ。身に着けてきたものは、与えられてあることの尊さが分かるようなってきた事。私が生きている事の、果たさねばならない使命を考えるようになった事。私がいる事で、作られてゆく世界もあるのだと謙虚に受け入れて生きる事。貪欲に可能性を追い求めて突っ走っていくことは、もういらない。
 小さな絵をつないで一つの世界を表現してみたい。それがもたらす世界観が、人を暖かく包んで慰められたらなどと、思ったりしている。そのためには先ず、私自身がそのような存在である必要がある。私にその力があるのだろうか。おだやかさ、あたたかさ、慈しみ、受けいれる、包み込む、そんなものが日常にあれば壊れなくてもいい心があるような気がしている。片手間ではなく、生業としてそれが出来ないだろうかと考えている。
 何をする為に私は生かされているのだろう。周りで、親しい人が亡くなってゆく。その人らしいメッセージを残して。思い返せばそれ以外のあり方など無い。見事ないのちの痕跡。圧倒されてしまう。
 くたびれた。15歳の息子を突然死で亡くして、それから人生の歯車が狂って何もかも失ってしまった人とであった。65歳の今も、息子の死んだ日から時間が止まったままだといっていた。自分の心の時計は止まったままなのに身体の外の時間だけが何十年も進んでいった。と言う。私は黙って聴いた。この悲しみは慰めをもたないから。
 ラケルの嘆きは、ラケルにしか分からないのだ。聖書には子供をなくす親の話が沢山出てくる事に、気がついた。今までは響いてこなかった悲しみが立ち上がって迫ってくる。聖書が神からのラヴレターと呼ばれるゆえんは此処にある。自分に宛て書かれた言葉が最も必要な時に、ダイレクトに迫ってくる。2000年前の物語の中に、私への個別のメッセージがある。
 光あれといった。光があった。