久し振りに,絵を描いた

mugisan2004-09-13

 もう、何ヶ月も絵を書く気持ちになれなかった。久し振りに、必要に迫られて、鉛筆デッサンをしてみた。まだ、以前のように、軽い線が引けないけれど、描いているときの無心の集中を維持できる事に感謝。自分が大切にしてきた時間が私を助けてくれる。子供が幼い頃から、紙と画材だけは豊かに与えてきた。だからどの子も、紙と鉛筆さえあれば一人で何時間でも楽しめる。森林公園に行ったのは、ジョナサンが幼稚園に行けなくなって、3歳年下のギュダ君と、二人を連れて毎日通った場所。彼らのお気に入りは、何も無い大きな空き地。グランドの土の上にうっすらと砂がまいてある。小さな木の枝を拾ってきて、大きな絵を日の暮れるまで土の上に描いた。小さな二人が走り回って大きな絵を描く。私は編み物を持っていって、ベンチに腰掛けて、二人を眺めて、一日を暮らした。極上の時間だった。飽きると、アスレチックで遊んだり、林の中の遊歩道を歩いたり、木の実、葉っぱの御手紙を拾ったりした。
 何も無くても、お互いがそこにいるだけで、豊かだった。昨日あの時と同じ時間を同じ場所で過ごしてみた。あの子だけがもう何処にも居ない。この空の下に、風になって、吹いているよ。たまには木の葉の手紙を、ポトンと落としてゆくよ。そんな気がした。でも、私の気持ちはどうやったら彼に伝えられるのだろうか。
 姫様に「感傷に浸ってないで」と言われそうな、切ないバージョンでした。彼女は、時々コチラがたじたじとするくらい正確にコチラの心の状態を見抜く。ギュダ君とよく似たところがある。
 親分がグラウンドカバーになる鞭のようにしなやかな植物を持ってきてくれた。何メートルでもランナーを伸ばして、所々にハート型の一対の葉をつける。夏には中型の白い花を咲かせるそうだ。まるで滝のように流れる緑の線が美しい。名前が分からない。外来種だと思う。それを植えつけてみようと思う。
 師匠が友人と会う約束をしたので、花屋でおろして私は花を買った。フリルの白いトルコ桔梗と、七色唐辛子と、サーモンピンクのガーベラ。ついでに、ハーブの香りのキャンドル,お香、アロマオイル。多肉植物3種類。初恋となずけられたエケベリア、ゴーラム・クラッスラ、十二の巻き・ハオルシア(姫様が16歳のジョナサンの誕生祝に上げてからしてしまったもの)これを、アイビーと、ねむの木の寄植えにしてみようと思う。緑の無くなる季節が来る前に小さな緑を一杯作っておいて、ギュダ君の部屋に置いておこう。
 私がこの日記を書いたのは、ただ自分の感傷のためではない。愛するものを失った人の心に、どんな気持ちが起こるのか、どんなものが辛いのか、なにが受け入れられないのか、いわゆるグリーフ・ワークが、心理療法の治療者の立場からの観察で行われているのに対して、本人の立場から、出来る限り文字化しておきたいと思った。今まで30年、同行者として様々な悲しみに立ち会ってきたけれど、子供を亡くした母親には慰めの言葉もなかった。ただ思いを受け止め、相手の言葉を拾い集めて、必要ならばそれを整理する手助けをする。今でもそれが唯一取りうる対処だと思う。自分の身に起こった事を通して、初めて当事者にしか分からない事を知る事となった。私にしか見えないこと、私にしか文字化できないことを、何十分の一でも文字としてとどめておきたいと思った。私の感情のはけ口としてではなく、母親の心の中で、この悲しみがどのように変化してゆくのか、心模様を具現化してゆく作業でもある。読む人にとってうざったくても、悲しみの現場を避けて生きては行けない。
 書くことで、見えてきたものを、同じ悲しみを生きる人と、また出会ったときに、私の言葉、体験としてシェアリングできたらいいなと思う。教科書にはない事が現実に起きてきて、カウンセラーの私がこんなに打ちのめされるのだもの、まして、死についてまったく無関心に生きてきた人は、どれほどのダメージを受けるだろうと思った。
 私も自分に無理をさせないで、少しずつ、立ち直ってゆこう。