親分は、お彼岸の法要行事に、ままんは、ガールスカウトに、姫様は?

mugisan2004-09-12

 秋の御彼岸です。今まで、仏教行事はあまり自分ごととして、気にした事なかった。まあ、クリスチャンだから、当たり前だけれど、育った家庭は、浄土真宗東本願寺だったし、親分の家は禅宗だったから、それなりに、季節ごとの仏教行事は身に染込んでいる。秋のお彼岸には、おはぎをつくらなければ、春の彼岸には牡丹餅を作らなければなどと、心がうずく。親のときは、割り切って、11月2日の諸死者の記念日にミサを頼むくらいだった。今年はギュダ君のことがあって、ふっと仏教行事をおもいだした。春彼岸、お盆、秋彼岸と、年3回は御墓参りをして、特定のお供物を上げて、一族が集まって亡き人の供養をする。回を重ねてゆく間に、何回忌の法事が入る。季節ごとに思いを重ねてゆく事で、だんだん亡き人との切ない思いを受け入れてゆくのだろうな。グリーフワークとして、実に優れたシステムだと感じた。私が親の時は此処まで感じなかったのは、親の死は、予め子供である立場として、看取るのが当たり前だと、覚悟があったからだろうな。子供の死は、理不尽で、ありえない事で、受け入れ難い事なんだろうな。子供は、亡くなってなお、親の庇護の下にあって、守られ続ける存在なんだな。だから、私はクリスチャンであっても、かつて私の親達が亡くなった人たちをいつくしんで供養したように、慣わしとして、供養したいのだな。身体に深く染込んだ、心優しい風習なんだよ。今頃ヤッと、気がつくのは、それだけ気持ちに、ゆとりがでてきたせいなのかな。ただ、闇雲に悲しみだけを抱え込んで、ヤッと一日を過ごしていたのが、少しだけ、自分と家族との気持ちの調整にまで。目が向けられる様になったということかも知れない。
 姫様は、期末試験。中学生は、余計な事を考えないように、試験と、部活と、行事で気力体力を、使い果たさせるのだそうだ。なんだか、大事なものを失ってしまいそう。
 午後、森林公園に、落ち葉と、木の実を探しに行った。どんぐり、胡桃、木の葉など。もっと木の実が無いかと思ったのだけれど、あまりに整備されすぎて、何も落ちていない。思ったより落葉樹が少ないのだ。針葉樹はあまり、個性的な実を落とさない。松ぼっくりも可愛いけれど、際立った変化が無い。様々な色合いの木の葉を拾ってきた。ポストカードをつくってみようかな。おととし、みんなで、いろんなものを作って,一番町のアート展で、お店を出した。結構評判が良かった。懐かしいな。